机上の空論
皇紀2594年 9月15日 帝都東京 有坂邸
「破滅ルートじゃない……だったらまだなんとかなるわね」
有坂結奈はガッツポーズをとる。酷く場違いなのであるが、彼女の視点から言えば、勝利にも等しいものだった。
「そうじゃない? 流れが確かに盧溝橋事件に始まる支那事変みたいな感じだけれど、打つ手がないわけじゃない。それに破滅ルートと決まったわけじゃない……だったら軌道修正をすれば良いのよ」
結奈は続ける。彼女の頭の中には何かあるようだ。だが、有坂総一郎には全く想像がついていない。現時点でも北京北洋政府という傀儡政権が風前の灯火となりつつある中で如何に被害を少なく手を引くなどすぐに思いつけという方が無理だ。そんな芸当が出来るならそもそも支那事変など起きないし、泥沼化する前に手打ちになっている。
「私たちが、いえ、日本が相手するのはソ連とゲリラだけに絞るの。それ以外は切り捨てるのよ」
「はぁ?」
意味が分からない。総一郎の頭上には?マークが浮かんでいる。
「だから、そもそも相手する必要がないということよ」
「なんで?」
「私たちに必要なのは究極すれば満州の資源で十分なのよ。あとは豪州なりマレーなりから買い付ければ良いわけで、北支の石炭や鉄鉱石は優先度は低いわ。それに輸送コスト的にも内陸から運ぶより船で運んだ方が安いもの」
結奈の話がいきなり違うところへ飛んだことでさらに困惑する総一郎だが、結奈が言うことは確かであるため口を挟まずに頷く。
「ゲリラやテロやアカを相手にしながら苦労して資源を採掘してもソレを運ぶ時にさらに苦労するのでは割に合わないでしょう?」
「まぁ、そうだね。マレーや豪州や蘭印なら反乱勢力の相手をするのは植民地政府や植民地軍だからね。日本がその負担をする必要はないね」
「そう、だから……いっそ切り捨てて蒋介石や毛沢東に北支をくれてやれば良いのよ。でも、そうそう簡単に屈することはないだろうし、屈しないように私たちが支援を続ける。傀儡政権である北京北洋政府は今まで通りに扱うけれど、資源供給地としての依存度は下げていく」
「表向きは内戦状態にするってことか?」
やっと結奈の頭の中に浮かんだそれにいくらか追いつくことが出来た総一郎はそう尋ねる。結奈もそれに首肯し続ける。
「私たちは万里の長城から少しだけ緩衝地帯を手に入れておけば良いの。そう、天津とその周辺があれば十分よね? それだけ確保出来れば満州との鉄道による往来が可能で、制海権もあるから勝利油田などからの石油の積み出しも確保出来るわけね」
「確かにそうだね。それくらいなら負担を増やさずに確保出来るし、ソ連への備えに穴が空くことがない。列強が自国権益を守るなら派兵して血を流せば良いことだ」
「そういうこと。私たちにとって利益がある天津・済南・青島を線で結んだ渤海側が確保出来れば十分よ。それは列強にとっても同様だと思うわ。どうせ大した兵力を派兵出来るわけじゃないのだから欲深くなっても損するだけだもの」
結奈のその考えそのものは確かに理屈は通っている。支那大陸そのものを縦横に戦場と化して戦い続けるのであればそれこそ100個師団単位の兵力の展開を必要とするだろう。実際、史実における支那派遣軍は終戦時に約40個師団相当、約105万の兵力を支那大陸に展開している。
それを考えれば結奈が言うように必要なところだけ、しかも欧州列強の面子を潰さない範囲に戦線を整理して影響力を行使しつつ内戦で疲弊させる方が良いのは間違いない。
「理屈は通っているんだが、それを陸軍が納得して受け入れると思うかい?」
「それはどうかしらね、でも、今現在において、毛沢東も張学良も蒋介石も直接的に日本に手を出しているわけじゃないでしょう? だったらなんとか軌道修正出来るんじゃないかしら? とても大変だとは思うけれど」
至って他人事のように結奈は言うが、その軌道修正をさせるべく政治工作を行うのは総一郎であるだけに彼は正直気が重い。特に血気盛んな参謀本部の若手将校を黙らせるためにはあの手この手の裏工作が必要であり、また矛先を返させるためには何か上等な餌が必要なのだ。
天津に駐屯し、欧州列強の駐屯部隊と共同して租界や権益を保護している支那駐屯軍は何れ近いうちに改組され方面軍に格上げされることだろう。そうなれば、兵力も増強され、場合によっては総軍へとさらに膨れ上がりかねない。そうなる前に目処を付けないとあっという間に泥沼の支那事変へ転がり込んでしまう。
「外務大臣の重光さんに上手く立ち回ってもらって支那情勢には立ち入らないと声明を引き出してもらう必要が出てくるな……何か大義名分みたいなものをでっち上げる形が必要かも知れない」
重光葵は外務大臣として対欧州協調外交を続け、また支那における権益の死守とその保護もまた継続して打ち出しているため、支那において彼の評判は悪い。それは彼自身が何かしたものではないが、前任者である森恪が東洋のセシル・ローズと例えられた様に対テロの闘士としての二つ名によって支那においては受けが悪いのだ。また、彼が天長節事件の被害者であることから対テロの闘士の名を響き渡らせる結果になっている。
「彼は偉大な調停者だからなんとかまとめてくれるとは思うけれど……」
「問題は荒木さんが参謀本部を止められるか……ここよね」
「まぁ、そこはなんとかなると思うよ。永田鉄山も小畑敏四郎も揃って現時点では仲良く荒木のオッサンの配下だしね……それに宮様が参謀総長だからそうそう無茶なことはね……」
史実と違って統帥権干犯問題はクリア出来ているが、根本的な見直しは行われていない。あくまでも政治問題にならないだけで再燃する可能性はどこにでもあった。特に宮様総長であるということは本人の意図とは別に潜在的なリスクをそこに抱えていた。
だが、現時点において統帥権を盾に参謀本部が好き勝手なことをしていないのは先の軍縮条約に関係する統帥権干犯問題で政界が再編されたことから歯止めになっているのだ。
「まぁ、北京を失っても天津に手を出さない限りは傍観する様に東條さんには私信で伝えておくことにするよ。あの人なら、関東軍を抑えてくれるだろうし、岡村寧次さんや梅津美治郎さんも無茶をせんだろう」
そう言った総一郎だったが、一抹の不安はあった。




