下から数えて三番目に酷い状態
皇紀2594年 9月15日 帝都東京 有坂邸
荒木貞夫大将の盤上の黒幕論は確かに理屈は通っていた。通っているだけに容易に頷き難い。いや、むしろ積極的に同意出来るものだった。だが、それに頷くことはある意味では太平洋に波風を立てることと同義であるだけに有坂総一郎は百面相をするより他になかった。
総一郎のコロコロ変わる表情に荒木は満足げに笑みを浮かべた。
「儂の独り言はこれまでだ」
確かにこんな想像容易く人に話せるものではない。特に陸軍大臣ともあろう人間が閣議でこんなことを話せば外交関係に影響が出ること間違いない。
特に現在の帝国政府は表向きは対欧米協調・対ソ強硬外交を展開している。これは重光葵外務大臣の巧みな外交手腕によるもので、対テロ戦争の闘士というそれが欧州列強にとって受けが良かったのだ。尤も、アメリカ合衆国においては日本や欧州列強の支那への仕打ちの仕返しとしか見られていないが。
そんな中で、誰の目にもソ連黒幕説で悪役に仕立てる形で対決姿勢をとっているのに、そこにアメリカ黒幕説なんてものが出ては折角取り付けた欧州列強の時限戦争への協力を反故にされかねない。
戦備の整っていない各国にとって、権益を保護出来る程度に戦ってほどほどのところで痛み分けで手打ちにしようというのが方針である以上、表面上無関係のアメリカを引っ張り出すなんて論外なのだ。下手に刺激して欧州大戦の外債取り立てなどされてはたまらない。
「貴様は儂の独り言など気にせず励めば良い……皇国への忠勤こそ臣民の務めぞ」
そういうと酒をぐいっとあおると杯を突き出す。酌を注ぐとそれもまたぐいっとあおり荒木は立ち上がった。
「では、帰るとするか。有坂よ、貴様の忠勤に期待する。自走砲については予算を都合する故、間に合わせよ。必要であれば技本と三菱に話を通す」
「随意契約でよいのですか? 閣下は未だ軍縮を通しておられるというのに……」
「あぁ、高橋是清が予算を認めたのでな……流石にあの達磨も必要なときに予算をケチることはない。皇国の興廃この一戦にありだ」
上機嫌の荒木を玄関まで送ると陸軍公用車が控えていた。
「馳走になったな。また頼むぞ」
荒木はそう言うと乗車し、すぐにいびきをかき始める。その表情は幾分か肩の荷が下りたという感じがした。
見送りが済むと傍らに有坂結奈が寄ってきた。
「荒木さんはお帰りになったのね」
「あぁ、上機嫌で帰って行ったよ。代わりに爆弾を置いていったが……」
微妙に渋い表情を浮かべる総一郎に結奈は何かを察したが、敢えて言わなかった。
「あちらで飲み直しましょう。少しは頭の中が整理出来ると思うわ」
「うーん。そうだと良いが……この辺は一人じゃ抱えきれないからな……相談に乗ってくれるか」
「相当な爆弾を残していったみたいね……その様子だと時限爆弾ね」
結奈の例えは割と的を射ていた。
「確かに時限爆弾だね。今すぐ爆発しないだけで、間違いなくどこかの時点で爆発する。さて、それが花火であれば良いけれど、核爆弾とかじゃ困るのだがな」
総一郎は自身の軽口に思わずハッとなり周囲を見渡す。誰もそこにいなかったことに安堵するが、隣の結奈は仕方ないなという表情ではあったが注意してくる。
「あまりアレな単語は出さないで頂戴。一応ここには旦那様自身が呼び寄せた敵性外国人がいるのよ? あの女は危険だわ」
途中から仏頂面になった結奈であった。
「結奈はアルテミスと仲が悪いのか?」
「あれは敵よ、ええ、そうね。泥棒猫で、旦那様を陥れたに違いないと踏んでいるわ。いつだったかのアメリカ製品の輸入が上手くいかなくなった時期にいくつか彼女が不自然な決済をした形跡を見つけているけれど、証拠がつかめなかったもの……」
「そんなことあったのか?」
総一郎は首を傾げる。
「ええ、あったの。だから、満州油田の開発が遅れたりしていたのよ……」
結奈の証拠のない確信はほぼ正解であった。アルテミス・フォン・バイエルラインの背信行為は確かにあった。それによって有坂コンツェルンが発注した資材やプラントが届かず、ソ連に横流しされていたのだ。
「まぁ、それはいいわ。けれど、あの女はキレすぎるのよ。下手なことを口走ったらきっと命取りになるわ。だから、貴方は不用意に彼女に近づかないで」
「それって焼き餅か?」
結奈は三白眼で睨んでくる。
「悪い? ええ、そうよ、嫉妬よ。けれど、実際に貴方が不用意な発言をするリスクを考えると嫉妬で遠ざけるよりも大事なことなのよ」
結奈の言葉は核心を突いている。総一郎は時折ポロッとこの時代の人間に聞かれてはまずい単語を発することがある。それも無意識の領域で。故に結奈の危惧は過剰なものでも何でもなかった。
「そう言われては仕方ないな。さて、そうしたらアルテミスについては君に任せるよ。危険物の取り扱いは私よりも君の方が適切だろう」
「そうして頂戴……さて、ここなら誰も邪魔しないから荒木さんの置き土産のこと話して下さいな」
寝室に着くと防音用の二重扉をしっかりと戸締まりすると結奈はベッドに腰掛ける。促された総一郎も同様に結奈の隣に腰掛けるが、すぐに地図を用意した方が良いと思い直しそれを広げた。
「荒木のオッサンは今回の黒幕はアメリカだと睨んでいるようだ」
「ソ連じゃなくて?」
「あぁ、北満侵攻事件そのものと内蒙古侵攻はソ連の行動によるものであるけれど、その後の支那各勢力の動きについてはアメリカが糸を引いていると睨んでいるようだね」
「確かにそう考えると辻褄が合う部分があるわね……」
「あぁ、これは大同と張家口を毛沢東と張学良が交換したという話は先程初めて知ったのだけれどね……これは一種の国共合作に近いものが起きていると判断した方が良いのかもしれない」
総一郎はそういうと駒を並べる。結奈が視覚的に理解しやすいように荒木がそうしたようにしたのだ。
「国共合作とアメリカ黒幕という論理では、北京北洋政府を構成する軍閥が完全に包囲されてしまい、奉天-天津のルートで首の皮一つ繋がっていることになる……そうなると我が帝国が相手するのはソ連ではなくなってしまう……そう、アメリカに操られた支那ということだ」
「それでは、この事変の根幹が変わってしまうじゃない」
結奈は先程の総一郎同様に驚きの表情を見せるが、すぐにそれに納得してしまう。
「これ、東條さんは気付いているのかしら?」
「わからん。場合によっては関東軍や支那駐屯軍などはアメリカの手の内で踊ることになる。下手すると盧溝橋事件と上海事変で始まった史実の支那事変みたいに泥沼に追い込まれるかも知れない……そうなると史実通り、泥沼で戦いながら対米開戦みたいな流れに陥る……」
「そうなったら破滅じゃない……兵を引くように工作出来ないかしら」
結奈は血の気が引いた様子であるが、冷静さは失っていない。この後の様相が容易に想像出来るからだが。
「兵を引くには前提が整わなければダメだ。史実でも兵を引く条件で進退窮まったのだからね。史実の支那事変も何度だって兵を引くチャンスはあった。だが、兵を引けなかった。それは帝国政府、陸軍、在郷軍人、遺族……それぞれの都合や面子があったからであるし、同様に支那にとってもそれがあった……」
「こっちが引きたくても向こうが納得しなければダメってことね……」
「あぁ、だから、戦線は拡大した。こっちが兵を引くためには敵を屈服させるしか方法が見つからなかったからだ……明らかに負けているのに満州帰せなんだから手打ちになんてなるわけがない」
「それどういうことよ……」
結奈は呆れる。首都どころか資源地帯、工業化地域を失い継戦能力を実質失っていた中華民国が抵抗を続けたのはゼロ回答どころかマイナス回答であったなどと言われたら呆れるほかない。
「だから、引くに引けないんだよ。奴らの頭の中は強いか弱いか、それだけだ。言うことを聞かせるためには勝ち続けるほかないんだよ……蒋介石はそれでも特殊な部類だ。中華の常識でいえば、普通はさっさと退場しているはずだが、最後までプレイヤーで居続けたんだから……それを可能にしたのがアメリカだからね」
「旦那様の理屈ではもう泥沼に入り込んでいるということじゃない……」
「あぁ、最悪の事態で考えると、既に下から数えて三番目くらいに酷い状態が進行しているんじゃないだろうか」
結奈は渋い表情を見せるが、一つ引っかかりを感じた。
「下から数えて三番目って言ったわね?」
「あぁ、そうだよ……それくらいの酷さだと想定している」
「それじゃあ、まだ破滅ルートに入ってないことになるわね」
結奈の表情は明るくなった。総一郎は怪訝な表情で結奈をみつめる。




