踏んだり蹴ったり
皇紀2594年 9月15日 帝都東京 有坂邸
アルテミス・フォン・バイエルライン、ドイツ系アメリカ人であり1年前までアリサカUSAの支社長を務めた才媛である。彼女はアリサカUSA閉鎖によって日本本社への出頭を命じられ、その後は本社勤務となっている。元々弁護士資格を有していることもあり顧問弁護士としても働きを見せ、欧米企業相手の交渉にもその手腕を発揮していた。
今日も彼女は横浜にある欧米企業の日本支社へと出向いて商談を行っていたが、昼過ぎに本社へ戻ると彼女の秘書から有坂家市ヶ谷本邸への出頭命令があったことを知らされ、いくつかの心当たりがある事案に対する書類を鞄に詰めて社用車で市ヶ谷へ向かったのである。
新橋にある有坂コンツェルン本社からは日比谷公園からお堀端を経由して三宅坂を上って靖国神社で左折するルートを使うのが一般的だが、桜田門前の警視庁や三宅坂の陸軍省・参謀本部など中枢機関が並んでいる。
大陸においての戦況は北満においては不気味な静けさを維持し、内蒙古と北支においては情勢変化がめまぐるしいためひっきりなしに官庁の公用車が霞ヶ関付近を往来している。特に陸軍公用車が桜田門を抜けて宮城へ向かっているのだろうか何台かの車列を組んで走り抜けていった。
アルテミスの乗った車が三宅坂にさしかかると検問に引っかかり御用改めを受けることになった。
「私は有坂コンツェルンの者よ、これが証明書、これでご不満なら今から会長の元へ行くのだけれど、貴方方も一緒に来るかしら? それとも、東條閣下と懇意にしていると申し上げた方が良いかしら?」
外国人であることから検問の憲兵があれこれと理由を付けて拘束しようとするが、憲兵隊の大親分と実質的には見なされている東條英機の名は伊達ではなく、まして憲兵隊のスポンサー企業でもある有坂コンツェルンとの関係を見直されるのはまずいと思ったか分からないが、憲兵の指揮官が引き下がるように指示したのであった。
「もう嫌になっちゃう」
アルテミスは北満侵攻事件以来の憲兵隊による帝都内の過剰警備にうんざりしていた。だが、彼女を一番苛立たせていたのは外国人という括りで拘束するくせに著名人の名を出すとあっさりと手のひらを返すことであった。
「仕方ありません、日本人は外国人がいるという環境に慣れていないのですよ。特に軍人は敵として外国人と相対するのですから、末端の兵士なら尚更です」
運転手はそう言ってみるが、アルテミスの憤慨は止まらない。だが、愚痴ったところで変わるわけではない。そうこうしているうちに有坂家市ヶ谷本邸へと到着する。
2年前の5・15事件で決起した一団を迎撃生け捕りした玄関ホールに入ると女中という名の獣耳メイドがアルテミスに気付き案内を始めた。
「しかし、貴方、いつも思うのだけれど……その頭の上のソレ、どうにかならないの?」
「そう言われましても……これがここの第二種正装だと言われて……お客様方には好評であるため異議を唱えにくいのです。最近ではこのお屋敷の真似をした喫茶店が大学の近くなどでとても流行っているとか……」
若干引きつった笑みを浮かべた若い女中はそう言うと本邸洋館の応接間に案内する。彼女はそこで待っているように伝えると退室する。
「あんなものが流行っているなんて世も末よね……一体誰の感性よ……あんなの始めたのは……」
アルテミスは嘆息する。
「あら、私だけれど、いけない?」
まるで見計らったかのように応接間に入ってくる有坂結奈にアルテミスは一瞬嫌な顔をするが、すぐに何事もなかったかのようなすまし顔になる。
「悪趣味よ、ユイナ。あんなのに付き合わされる彼女たちが可哀想だわ」
「これだから、獣耳メイドの良さが分からない金髪の小娘は……ちなみに旦那様は狐耳の私がお気に入りだったわ」
結奈は大袈裟な身振り手振りでアルテミスをディスりに掛かる。そしてそれは自分が一番気に入られているという正妻のマウンティングだった。しかも、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。こればっかりはアルテミスは「うげぇ」という表情を浮かべざるを得なかった。それほどあんまりなマウンティングだった。
「そんなどうしようもないことはどうでも良いのよ、ソウイチロウはどうしたの? 呼びつけておいていないとか言わないでよね」
「いないわよ?」
「はぁ?」
アルテミスの額には青筋が立つ。呼びつけられ、検問で絡まれ、その上で訳の分からない正妻マウンティングされた挙げ句、呼ぶつけた本人はいないという。思わず出た言葉に苛立ちが込められている。
「旦那様は本邸洋館にはいないの。その代わり、あなたに宿題を残していったわ」
「どういうことよ、宿題って!」
結奈がおちょくるような態度を崩さないことから流石のアルテミスも喧嘩腰になる。この二人基本的には相性が良くない。というより、結奈の視点では略奪を目論む泥棒猫にしか見えていない。当然、態度もそれ相応になるのだ。逆にアルテミスの視点では趣味の悪い女狐にしか見えていない。
「これよ」
この時の結奈の表情は真面目であった。為すべき事を為すときの態度はきっちりしている。
「アルテミス、あなたには毛沢東の背後にいる……旦那様の言葉では操っている存在……を日本とソ連以外の視点で推測することよ。毛沢東が北支を得ることで一番利益を得るものが真犯人ということになる……今の段階では欧州列強さえも容疑者と言えるわ。けれど、どうしても日本側の視点では欧州列強は味方と見えてしまうからアメリカ人であり、ドイツ系の血を引くあなたに推理して欲しい……そういうことよ」
結奈の瞳には一切の曇りや先程までのそれを感じさせない確かなものがあった。泥棒猫と心の底では思っていてもこの宿題を課すに値する存在だとは認めているからであろう。
「それで、判断材料は?」
「もうじき届くわ。本社から速報が届くように手配しているから、あとは順次資料が各方面から届くわ。あなたには部屋を用意するからカンヅメしてもらうわね。食事や他に必要なものがあれば、女中を呼べば良いし、電話も用意しておくから本社に旦那様の名で手配を命じたら良いわ」
「それで、貴方は何をしているのかしら?」
「決まっているじゃない。私は旦那様に従ってやらないといけないことをするだけよ。私は執行役員なのよ? 会社の面倒も見ないといけないもの……」
「一つ良いかしら?」
「何かしら?」
「私も仕事抱えているのだけれど、それにこの宿題というのは本来なら政府や軍が抱える案件じゃないの?」
「そうだけれど、それがなにか? あなたの社内業務は別の人物でも事足りることよね? あなたが担当すると都合が良いけれど、あなたでないと絶対駄目なことではない。けれど、旦那様の宿題はあなたが最適で、あなた以外ではダメなのよ」
結奈は何かおかしいことでもあったかと尋ねるような表情であった。そして異議は認めないと言外に匂わせていた。
「わかったわよ。その宿題とやらの答えを出してやるわよ」




