渤海、波高し
皇紀2594年 9月10日 満州総督府領 関東州 旅順
海路はるばる1万2000キロ余を越えてイタリア東洋艦隊はこの旅順に向けて航海を続けている。彼らが到達するのは9月下旬になってからのことだ。
だが、旅順は大日本帝国海軍にとって重要港湾の一つである。海軍は鎮守府・警備府に次ぐ重要軍港として要港部をここに設置している。欧州大戦後、対岸の山東半島がドイツ租借地でなくなったことから一度要港部は廃止されていたが、33年に海軍省は再度ここへ要港部を設置した。これは欧州列強が黄海・渤海沿岸に権益を有し、その警備を実質的に帝国海軍が担うこととなったからだ。
当初は佐世保鎮守府から定期パトロールする形をとっていたのだが、支那大陸の情勢不安もあり海軍省内で佐世保からのパトロールは黄海・東シナ海に限定し、渤海は旅順から行うことが検討された結果である。しかし、史実の旅順要港部と異なり、ここにはその性格上外国人の立ち入りが多くあったのだ。
例えば、イタリア極東艦隊(艦隊という名称であるが、実態は警備艦艇10隻で構成)などは天津-大連航路の哨戒任務でよく立ち寄る。その際に情報収集と共有が行われ、駐在武官も存在しているため実質的には多国籍艦隊の司令部という位置づけになっていたのだ。
これは帝国海軍にとってもメリットがあったのだ。他国海軍とのパイプでもあり、信頼醸成と技術交流という部分もあったのだ。
特に大英帝国東洋艦隊の分遣隊やイタリア極東艦隊などが保有する機材は帝国海軍でも用いていることが多く、場合によっては補給修理も引き受けている。これによって、イタリアからライセンスされている九四式三十七粍機銃の運用ノウハウの共有が行われていたことで稼働率の向上、故障率の低下というメリットがあった。
また、大英帝国東洋艦隊分遣隊も弾薬補給の都合から九四式三十七粍機銃が搭載され、機材の共通化が行われていた。これはポンポン砲ことヴィッカースQF2ポンドポンポン砲の稼働率や故障率が問題となっていたことから同規模の機関砲である九四式三十七粍機銃を仮搭載することにしたからであった。
これによって「重い、遅い、動かない」と用兵側から悪評があったポンポン砲が撤去され、大英帝国の総領事館や領事館の防御兵器と転用されたのである。地上勤務からすれば40mmもの大口径多連装機関砲が配置されたことは嬉しいモノであった。艦載兵器としては問題があっても、地上で防御兵器として使うのであれば大きく問題にならないからだ。彼らからすれば戦車砲を手に入れたようなモノである。
さて、この旅順要港部はソ連赤軍の北満侵攻事件以来緊張が続いている。
原因は小型ボートにマウザーM1918と思われる対戦車ライフルを載せた海賊船が度々襲来し、多数の漁師が犠牲となっていたのだ。非武装の漁師が被害を恐れて沿岸操業に切り替えると遼東半島沿岸や山東半島沿岸においても牙を剥くようになったことで渤海沿岸に権益を有する列強諸国は本格的に対策を迫られていたのだ。
問題はこの小型ボートであった。船体そのものは木製漁船であるが、積まれている発動機が厄介なモノであったのだ。
何でこんなモノが流通しているのかと悩むが、心当たりがあるのは2つしかない。そう、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦である。そこにあったのは英語やロシア語が入り乱れた形で合成されていたライトR-1820であった。だが、R-1820であると断定出来ないのはロシア語表記が混ざっているからだ。シュベツォフM-25というR-1820のライセンス生産品があり、それの可能性も否定出来ないからだ。
デチューンされているとは言えど航空機用発動機である。それでも500馬力前後は出るはずで、相当な逃げ足であったのだ。とは言っても、海賊たちも持て余し気味であり、警備艦艇に追われると速度を上げすぎてひっくり返るなど頻発していた。
この結果、無闇に艦載砲で警告射撃するくらいなら陸軍から重機関銃を借りてきてそれを仮設して断続的に射撃しつつ追いかけ回す方が面倒が少ないと列強海軍関係者は認識したのであった。だが、いかんせん数が多く、青島沖で発生した次の日には天津沖で、その次の日は旅順沖でと毎日のように被害が起きていることが旅順要港部に集う列強海軍関係者の悩みの種であった。
特に天津付近は油田開発が進んでいることもあり、タンカーの発着もあり大英帝国などは青筋を立てて怒りを露わにしていたのだが、どこの海軍も適当な警備艦艇がないため比較的速度を出せる駆逐艦や水雷艇を投入することになり艦艇運用のスケジュール管理に苦労しているのだ。
しかし、それを内地の平賀譲造船中将などは困り顔であったが、我が意を得たりとばかり帝国海軍版MEKOの出番と長崎にまで出張って川南工業に建造促進をせかすのであった。
「だから言っただろう、日本海と違って文明人だけがいる海じゃない。一日でも早く建造配備して無法者を海の藻屑にしてやるのだ」
突然来られて演説を垂れる平賀の応対には流石の川南豊作といえど困ってはいたが、平賀の言うことは尤もであり、平賀が満足して帰って行った後に「今こそ報国の時」と全社員に通達を出し、特別報酬を出し士気を鼓舞しつつ建造促進に取り掛かった。
MEKOシリーズが出揃い戦列に加わるまで時間はかかるが、それでも現場における共同防衛によって渤海と黄海の海賊退治が行われていることは帝国政府や列強諸国の政府にとっては十分な時間稼ぎであり、国益に適うものであった。




