ドゥーエの呪い
皇紀2594年 9月9日 ドイツ=ワイマール共和国 ベルリン
ドイツにおいてユンカース社は航空産業において一大勢力であった。新参のバイエルン航空機製造やハインケル航空機製造と違い、起源は1895年にまで遡る。航空機そのものにおいても欧州大戦の最中である1915年から始めており、第二帝国治政下においてフォッカー社と提携しての量産を行っていた。
それ故に航空機開発だけでなく、発動機開発についても一家言ある存在だった。
欧州大戦が終わってからは主に航空会社を相手に商売を行い、その最大の顧客はルフトハンザドイツ航空であり、ルフトハンザには系列会社も合併によって組み込まれているだけあり、実質的に身内とも言える存在であった。
そのルフトハンザは大西洋航路に進出し、豪華客船と覇を競い合う関係にあった。その課程でG.38旅客機が開発され、航続距離の関係で欧州圏内の航空路で運用されるようになったのである。
この際、ユンカース社はG.38の開発において全翼機の概念を採り入れ、主翼を厚くし、発動機すべての整備を飛行中であっても出来るように創意工夫したのであった。この考えは非常に効果を発揮し、巨大な機体を支える非力な発動機の整備性を向上させることで信頼性を向上させることに役立ったのだ。また、同時に主翼内にも座席や収納スペースとして活用することで非常に大きなペイロードを発揮させることに成功したのであった。
この技術的な成功はヘルマン・ゲーリングを大いに刺激し、発足したばかりのドイツ航空省によって試作機が1機購入されると展示飛行や政府の公用機として運用され、欧州中を飛び回り、ドイツ航空産業の復活と技術的優位性を示すことに活用したのである。そう、一種のプロパガンダである。
「欧州各国はこのG.38やその同種の航空機によっていつでも首都や工業都市が焦土と化すことを理解したに違いない。なにせ、1機あたり5トンもの焼夷弾をばら撒かれては欧州の都市などその殆どが燃え上がり鉄道も役に立たなくなるのは誰の目にも明らかだからな。わざわざドゥーエのそれを持ち出すまでもない」
ゲーリングは側近に豪語すると自身が引き立て航空統帥局長に就けたヴァルター・ヴェーファー中将に視線を向けると彼に空軍構想を語らせた。
「将来の紛争において戦略爆撃というものが果たす役割の重要性は閣下が仰られた通りであり、イタリアのドゥーエ将軍が著したそれを着実に実現する方向に進んでいる。我が航空省はいずれ再軍備において空軍を擁するようになるだろうが、その時に必要となるのは2つの方向性である。一つは陸軍と協同する近接航空支援……これは欧州大戦の時からの延長戦でしかない、もうひとつは戦略爆撃だ。我らの敵は現状大英帝国でもフランスでもない。確かにフランスは歴史上の深い因縁があるが、さしあたって対立点は多くはないのだから彼らを刺激するつもりはない」
ゲーリングは敢えてヴェーファーにそれを語らせることで、政治的立場からの発言ではなく軍部の常識的な意見という形にして欧州各国の疑念を反らせたのであった。だが、これはドイツ国内において経済相互援助会議という名のソヴィエト連邦の衛星国が自国と国境を接するようになったことで空軍整備の必要性を強く認識させる効果を持っていたのであった。
国内向けのプロパガンダとしてヴェーファーの主張を広めると同時に、欧州各国向けにはより快適で早く欧州諸都市を結ぶという名目でルフトハンザの航路拡充をアピールし、ゲーリングは株式の半数を握り航空省の統轄下に有るユンカース社にG.38の量産と重爆撃機としての予備改修を命じ、ルフトハンザにもG.38の保有機数を増やすように命じたのである。
これは実質的なルフトハンザを隠れ蓑に戦略空軍を建設する意図に他ならなかったが、表向きには航空会社の航路拡充と利便性の向上であるため欧州各国は異議を唱えることはなかったのであった。
だが、これはソ連には大きく刺激を与える格好になったのである。
コメコンという衛星国を得たことで緊張関係になってはいたが、直接的に対立する要素が存在していなかったことで辛うじて細々とではあるがバルト海を通じての交易関係にあった独ソ間の関係破綻に繋がったのである。
「ドイツからの一切の輸入を禁止する」
猜疑心の強い赤い皇帝はドイツの狙いは自分だと思い込んでしまったのだ。実際、その思い込みは正しいものであるが、ドイツは再軍備すらままならない状態であるにもかかわらず、自分から関係断絶を宣言したのは彼にとって致命的なミスであった。しかし、それを止める者はいない。
「ドイツと関係があったものは強制収容所に送れ」
彼の命は即座に実行され、戦車開発者、鉄道技師、航空技師らが軒並み逮捕されることとなった。技術者たちは多かれ少なかれドイツとの関係があるため、猜疑心の強い赤い皇帝にしてみればスパイ予備軍にしか見えなかったのだ。
だが、彼もそこまで馬鹿ではない。技術者に枕木を担がせたり、農場へ送ったりするほど愚かではない。まぁ、懲罰の一環として実際にそういった労役を課されたのは否定はしないが、基本的には強制収容所内の研究施設に監禁である。
技術者同士が会話するのも監視の下で行われるため、開発や研究は遅々として進まない状態になってしまったが、仕方がない。しかし、監視兵は必ずしも学のある人間とは限らず、党のへの忠誠や言われたことだけしている者も多く、次第にその監視そのものもなあなあになっていったのである。そうなれば技術者たちも仕事がやりやすくなるのであった。なあなあにするためには帳簿の改竄や支給品のちょろまかしなどで監視兵を買収していったのだ。
しかし、それでも彼ら技術者を悩ますことはいくつかあった。
研究施設が不十分であったこと、ドイツ製の機械や計測機器が没収されたことで代わりにアメリカ製品が入ってきたのであるが、従来使っていたドイツ製に比べると雑でいい加減で大雑把だったのだ。
「こんなもんでまともな研究出来ると思っているのか」
彼らの怒りは尤もであったが、少し前の大日本帝国はもっと状態が酷いのだから、彼らの悩みは贅沢なものであるとだけ記しておきたい。
そして、アメリカ製の大雑把な機器を使っての研究が始まったが、アンドイレ・ツポレフが設計開発したTB-3よりも航続距離を伸ばしたものを開発せよと命じられたのであった。
ここに日独ソを中心とする重爆開発競争が開始されたのであったが、それは30年代初めの偶然の出来事であった。




