怪鳥、飛び立つ
皇紀2594年 9月7日 岐阜県 各務原
帝国陸軍の飛行場と実験部隊が存在する各務原には6機の巨人機が駐機している。鮮やかな真紅の塗装が施された巨人機は何れも轟々と発動機音を轟かせ、管制からの指示が出ると滑走路に向けて動き出していた。
誘導路から滑走路へと進入した巨人機の1番機は400m程度の滑走でふわっと飛び上がって基地上空を旋回し、後続が飛び立つのを待っていた。2番機、3番機と続けて飛び立つが何れも滑走距離は400m程度であり、滑走路を十分に残した状態で飛び立っていく。
最後の6番機が飛び立ち、基地上空を旋回すると編隊を組み西の空へと飛び去っていく。
この真紅の巨人機には特大の日の丸が随所に描かれ、また、尾翼には誇らしげに翼を広げる金鵄が描かれていた。ここまで来ると悪趣味だとまで言えるだろうが、この塗装を実行した者たちは皆大真面目であった。
「これほどの巨人機だ、帝国の高貴なる歴史に相応しい塗装であるべきだ」
「帝国の行く末を指し示すと言っても良い。ならば、神話にそんざいする意匠があるべきだ」
「錦の御旗と同じ配色が見栄えが良いだろう、そうだ、尾翼に金鵄を描けば良いのではあるまいか」
こういった声が上がるとあとは同調圧力とナショナリズムによる異様な高揚感がその場を支配し、あれよあれよという間に機体塗装は真紅、尾翼に金鵄が描かれて陸軍上層部が口を挟む前に全機統一されて出来上がってしまったのである。
当然、陸軍省から大目玉を食らった各務原基地の面々であったが、陸軍上層部へ真っ向から挑む男がいた。
「では、陸軍中央として、この機体に相応しい塗装をお答え頂きたい。この機体は我が帝国が世界に冠たるに相応しいものであり、合衆国にすらこれに匹敵する機体はありませぬ。それに相応しい塗装を是非ご教示下さい」
実際問題として上官への抗命でしかないが、言われた側からすれば代替案があったわけでもなく、勝手なことをやっている連中への小言を言うためだけに出向いているのであって返答に窮する事態となったのだ。
結局、まともに代案を提示することも出来なかった陸軍省からの詰問使は現場に言いくるめられ、逆に陸軍上層部を説得する使者に立場を変えられていたのである。当の本人も何でこうなったのかと首を傾げるのだが、言いくるめられてしまったのだから仕方がない。
さて、この巨人機だが、各務原を飛び立つと一路奉天を目指して西へ飛行を続けることになる。昼に飛び立った彼らが奉天の地に足を付けるのは夜になる。だが、彼らは地上からの後方支援と無線による誘導で飛行に苦労することはない。
奉天の飛行場も滑走路の端には多数のかがり火を焚き、また、着陸に適した高度であることを示す着陸灯が点灯し受け入れ態勢はばっちりであった。
この巨人機の名を九二式重爆撃機という。
史実ではドイツ・ユンカース社がルフトハンザ社向けに販売したG.38をライセンス生産し改造したものである。この世界でもほぼ同様のものであり、史実同様にエンジン換装などを行っている。
九二式重爆撃機
全長: 23.2m
全幅: 44.0m
全高: 7.0m
機体重量:15トン
全備重量:25トン
発動機:ハ5 14気筒空冷発動機950馬力 4基
最大速度:220km
航続距離:3000km
爆弾:5トン
機銃:7.7mm機銃×8
機銃:20mm機関砲×2
元の機体よりも最高速度と航続距離が若干ではあるが向上しているが、実はこの機体、開発の経緯は紆余曲折があったのである。
史実と違い、日ソ関係は緊張の連続である。シベリア出兵に勝利してしまったことで正統ロシア帝国という緩衝国が成立し、また満州事変によって日ソは満州を分割占領し既成事実化によって支那と分離してしまっている。
これらは日ソに相手国への長距離侵攻が可能な爆撃機の開発を促してしまったのだ。ソ連はTB-3、TB-4と4発重爆撃機の開発に乗り出し、TB-3は実用域に達し、極東地区にも小数であるが配備されていたのである。
流石に冷戦時代のような東京急行みたいな長距離偵察(示威)飛行は出来ないが、航空戦力を実質的に保有しない支那に対しては外蒙古から発進した機体が北京や天津上空を通過して再び外蒙古の基地へ戻るといった作戦行動をしていたのである。
これに負けじと開発を進めていたのが九二式重爆である。
要求水準を満たす機体を製造するには余りにも未知の領域すぎたこともあり、陸軍から開発を任された三菱重工業は目星をつけていたユンカース社にライセンス生産を依頼、また技術移転を要望し、これに成功。
時期的に世界恐慌の煽りで業績悪化に苦しんでいたユンカース社は破格のそれで応じ、三菱もまた足下を見るような真似をすることなく、非常に友好的な技術移転が進められたのである。この時、住友金属もまた一枚噛んだことで航空機用金属素材の製造技術を大きく向上させることになったのだ。
こういった経緯もあり、必要性は高まっていたが、慎重且つ確実に技術取得と生産能力を獲得していった。そのせいもあって生産に至るまでに時間が掛かり6機しか現時点でも揃っていない。
しかし、陸軍はこれに大きな期待をかけていた。
「爆弾5トンを積める超重爆なのだ。空から絨毯爆撃を仕掛ければいかに支那やソ連の湧いて出る歩兵であってもひとたまりもないだろう」
「仮に敵に都市を一つとられたとしても、まさに飛んで火に入る夏の虫。むしろそれこそ願ったりだ」
実際にこの理屈は間違ってはいない。石原莞爾率いる所沢教導飛行団が蒋介石率いる国民党軍を焼夷弾で焼き尽くし、毒ガス爆弾で根絶やしにした実例から非常に効果的だと認識されいる。こういった事情から数が少ないとは言っても陸軍中央はそれなりに自信があったのだ。
尤も、数が少ないのは余りにも巨大で運用が出来る場所がないということ、生産に非常に多くの資金と資材を必要とするため航空部隊への配分を大きく消費してしまったという理由があり、もう少しローコストの機体が作れないかと陸軍航空本部は割と真面目に取り組む結果に繋がっている。
要は欲張りすぎたのである。限界に挑戦したは良いが、限界を超えていたのである。




