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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2594年(1934年)

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反撃の準備

皇紀2594年(1934年) 9月5日 帝都東京


 いつになく大規模侵攻を始めたソ連極東赤軍に帝国政府は慌てふためくことになった。


 関東軍からは北満州や外蒙古へのソ連赤軍が増強されたという報告は上がっておらず、また、定期的な小競り合いが起きている程度でそれらも大興安嶺要塞によって防がれていることでソ連国境は安泰であるという見解が陸軍省から伝わっていたからである。


 帝国政府の動揺は相当なものであったが、陸軍が断固として敵の侵攻を阻止すると断言し、帝国政府も外交的に巻き返しを図る方向で意志を固めるとあとはそれぞれの役割を果たすべく動き出した。


 関東軍が隙を突かれた格好で極東ソ連軍の侵攻を受けてしまったのは国境が安定していることで陸軍省も重砲と自動車調達に注力し、また騎兵連隊の捜索連隊への改編が優先して進めていたことに要因の一つがある。


 東條英機中将、原乙未生中佐らが陸軍内を周旋して回ったことで戦車生産を後回しにしてこれらには歩兵連隊や捜索連隊には赤菱製の山猫こと九四式高機動車や九三式大型自動二輪車/九三式側車付自動二輪車として採用、優先的に予算を注ぎ込み、生産配備が行われている。実際問題として、攻勢に出る局面ではないこともあり、各種機動砲の生産とこれら高機動車両の量産が優先されることに陸軍内ではそれほど問題とはならなかったのだ。


 例えば北支や満州において現地住民が蜂起したりゲリラが蜂起したとしても、九四式高機動車と九四式六輪自動貨車を配備した歩兵連隊や九二式重装甲車、九三式軽装甲車を装備した捜索連隊によって急襲鎮圧されている実績から東條らの進言によって進められた機械化、自動車化はまずまずの成果を上げていたからだ。また、陸軍中央や技術本部ですら戦車の有用性は認めていても望ましい戦車の開発や方向性で未だに検討がされている状態であり急務ではないと考えていたこともあり、旧式化が著しい八八式中戦車、八九式軽戦車よりも有用性を示した九四式高機動車、九四式六輪自動貨車、九二式重装甲車、九三式軽装甲車の整備が優先であると判断されていたのだ。


 とは言っても、戦車開発をおろそかにしているわけではなく、一定性能を示す水準の試製九四式軽戦車は出来上がっていた。しかし、歩兵直協性能としては不足していると歩兵科からは不満の声が出て、新設された機甲科や捜索連隊を擁する騎兵科などは高機動行動が可能な軽量戦車は望ましいと即時生産を求めていたのだ。


 ここにセクショナリズムの壁が立ちはだかるのである。軍隊はお役所であり、また、お役所である以上、自分の管轄部門こそが優先だという感覚に陥りやすい。


 歩兵科にしてみれば折角充足し始めた九四式高機動車、九四式六輪自動貨車の量産こそ望ましく、それを邪魔する機甲科や騎兵科の言い分など迷惑でしかなかった。これに砲兵科も与しているからややこしくなるのだ。砲兵科も各種機動砲を牽引させるため九四式六輪自動貨車や九三式四屯牽引車、九三式十五屯牽引車など砲兵トラクター配備を望んでいたのだ。よって、歩兵科と砲兵科が結託して機甲科と騎兵科へ対抗していたのである。


 そして彼らが最も頼りにせねばならない輜重兵科は割を食う形になっていた。元々トラックを優先的に配備されていたのは輜重兵科であった。これは物資輸送という兵科特有の任務の性格によるものだが、逆に言えば、陸軍内でも一定数のトラックが揃っていたこともあり、各兵科から嫉妬されていたのである。


 そういった事情もあって、最新型の九四式六輪自動貨車は別兵科に優先的に配分され、輜重兵科に配備されているトラックは雑多な中古車だらけであったのだ。元々、トラックであれば何でも良いとばかりにかき集めて配備していたこともあり、数だけは揃っていたのだ。しかし、数が揃っても部隊ごとに輸送能力も速度もバラバラで全体としてはまとまりがない状態であった。


 いくらかは輜重兵科が重要であると認識されるようになったが、それでも戦場の花は結局は歩兵、砲兵、機甲兵、騎兵であり、輜重兵は脇役でしかないという意識を変えることは出来ていない。食料弾薬がなければ戦えないと理屈では理解しているが、それでも感情としては受け入れがたいのである。こうして試製九四式軽戦車は宙に浮いた形となってしまったのだ。しかし、そこはそれ、折角制式化目前となって量産の段取りまで整えたのに量産しないのは勿体ないため、イタリアへの輸出と量産が始まったのであった。


 イタリア向けに輸出が始まった時点で三菱重工業丸子工場や戦車生産用の相模造兵廠において30両が揃っていたのだ。これは制式化と同時に配備する前提で拡大試作という体裁で実質的な量産を始めていたからだが、これらは8月下旬にイタリアへの輸出が決まると最終艤装整備が行われ29日に横浜港へ送られたのである。史実において帝国陸軍における戦車1個連隊への配備数は40~70両程度が定数であり、1個中隊15両計算となり、2個中隊分が先行量産されたという認識となる。


 31日にイタリアの貨物船ヴェント・ロッソ号に積み込まれると深夜に浦賀水道を抜けて9月3日朝の段階では種子島沖を航行していたが、モガディシオに駐屯するイタリア東洋艦隊からシンガポールを中継しての指令が届いたのである。


「貴船は直ちに大連港へ向かわれたし、積み荷を陸揚げした後は長崎港へ向かい、指示を待つこと」


 大連に向けて舵を切った直後に天津に駐屯するイタリア東洋艦隊分遣隊からも護衛警戒用に駆逐艦を送ると受電したことでヴェント・ロッソ号は会合地点に向けて航行することになったのだ。


 佐世保から出向いた連合艦隊差し向けの水雷艇による警護が途中あり、イタリア駆逐艦と会合後は水雷艇はそのまま黄海の哨戒任務に就いたが、日伊両国が積み荷である試製九四式軽戦車を重視していることがヴェント・ロッソ号の船長にはよく分かったようであった。


 5日早暁に大連港へ入港したヴェント・ロッソ号から急ぎ試製九四式軽戦車が陸揚げされると隣接する南満州鉄道の港内引き込み線に待機していた臨時貨物列車に乗せ替えられ、臨時ダイヤによる特別運行で2編成の臨時貨物列車は続行する形で一路奉天へと向けて出発していったのである。


 この時、ヴェント・ロッソ号とは別便でモガディシオへ向かっていたイタリア陸軍の戦車兵たちも同じく連合艦隊差し向けの軽巡洋艦夕張に航路の途中で会合し便乗することで大連へ向かったのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] あちゃー旧軍の弱点である部署・兵科ごとの足の引っ張り合いが出ちゃったか…現代の自衛隊でも普通科(歩兵科)と機甲科の関係がアレらしいという話聞きますし、諸兵科連合って結構難しいんですねぇ… そ…
2021/05/31 16:30 退会済み
管理
[良い点] 歴史が動き出した感有るなー [気になる点] 航空兵力ドコ行った?
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