ジューコフの一撃
皇紀2594年 9月3日 北満州
極東のマジノ線こと大興安嶺要塞はソ連赤軍の大規模侵攻によって苦境に立たされていた。原因は工作員による列車砲及び重砲への破壊工作であった。
ソ連極東赤軍を指揮するゲオルギー・ジューコフは何度かの大興安嶺突破作戦によって列車砲と重砲の充実によって侵攻を食い止められていることに苛立ちを感じていた。彼は敢えて無意味な攻撃を加えて関東軍の慣れを誘うことに切り替え、ソ連赤軍が無策に突っ込んでくると言う先入観と要塞が鉄壁であるという虚構をでっち上げることで油断を誘い隙を突くことにしたのであった。
その効果は絶大であり、関東軍将兵は「自衛隊」と慢心が蔓延し、多少の大部隊侵攻でも食い止められるとたかをくくっていたのだ。
実際、ジューコフも関東軍の慢心には一定の理解をしていた。自分自身でも慢心してもおかしくないと考え、そしてそれでさえも守り切れると断言出来ると思っていた。
そう、列車砲と重砲があれば……。
特に長距離射撃を可能とする列車砲による先制攻撃はソ連赤軍にとって最大の脅威であった。しかも、30km程度の射程を持つダース単位の列車砲が揃っていることで濃密な絨毯砲撃が可能であることが一番の悩みの種であったのだ。
ソ連赤軍も列車砲を有しているが、モスクワとイルクーツクでは、配備先についての見解が一致せず、356mm列車砲であるTM-1-14は31年頃に開発配備されていたが、シベリア鉄道の軌道が弱いこともありバルト海方面に配備され実質的に沿岸砲運用されていた。シベリア鉄道の弱軌道でも運用可能な180mm列車砲TM-1-180も開発済みであるがこれらも黒海方面に優先的に配備されていることもあって極東への転用は叶っていない。
ヨシフ・スターリンにとって有能な人材であるジューコフに必要以上の戦力など与えたくなかったのである。そして、彼は今、ジューコフ同様に有能な人材を粛清によってこの世から消そうと躍起になっていたのだ。
特に赤いナポレオンことミハイル・トハチェフスキーなどはソ連赤軍最初の元帥として赤軍を指導する立場にあり、スターリンとはソ連-ポーランド戦争以来の犬猿の仲であり、自分を差し置いて注目を浴びるトハチェフスキーが目障りでしかなかった。
政権中央によってソ連という国家の全権力を握りつつあるスターリンではあったが、赤軍という組織においてはその支配力はまだ完全ではなかったのだ。そう言った意味で、自分の手が届かない地域に独立国家のような存在が出来上がるのは望ましくなかった。
また、モスクワ近辺に親衛師団を複数配備させるなどクーデターへの警戒も怠っていないこともあり、ジューコフは相変わらず満足な戦力補充を受けることが出来ずにいたのであった。
しかし、ジューコフはその状況であってもスターリンに忠実である様な姿勢を示していた。富農絶滅政策への強烈な支持を明言し、同時に追放対象である富農や富裕層、そして科学者、技術者を強制労働へ従事させるために大量に引き受けたのである。
この表向きの行為によってスターリンはジューコフを忠実な部下として扱い武器弾薬兵力は与えなかったが、教育的指導が必要な裏切り者の処分を任せる程度ならば信用していたのだ。
しかし、それはジューコフにとって最も望ましい状況だったのだ。
「強制労働させて思想教育を行うという言葉に偽りはない。枕木を担がせるのも、火薬を作らせるのも、銃を造らせるのも一緒である。彼らに教育的指導を施す権限は我々にある」
ジューコフはこう言うとバイカル=アムール鉄道建設に振り向けられている人員の一部を工場増設、鉱山開発へと振り向け、自給自足体制を固め始めたのである。特に製鉄所、兵器製造所、弾薬工場が優先されイルクーツクにはこれらの工場群が立ち並ぶようになったのである。
また、同様にモンゴル人民共和国への傀儡化を推進、実質的にはモスクワ中央政府の許可を得ていない密造状態の銃火器を輸出し保管、またモンゴル国内に同様に密造工場を設立してここでも不足する銃火器などを量産させていたのである。
同時に遊牧民であるモンゴル人や赤化支那人を使い、満州へ密入国させ関東軍現地部隊相手の商売を行わせ、本格侵攻と同時に列車砲陣地のレール爆破、軌道破壊を行わせ、重砲部隊において食中毒を発生させるなど関東軍の打撃部隊に初動に遅れが生じるような工作を行ったのであった。
こうしてジューコフは不足する武器弾薬の確保に努め、関東軍との決戦の時を待っていたのであった。




