佐藤の挑戦
皇紀2594年 8月 島根県 揖屋 佐藤造機
島根県揖屋に本拠を構える佐藤商会という新進気鋭の企業は佐藤忠次郎という人物が発足させたことで知られている。史実で言うところの三菱マヒンドラ農機の前身である。農業機械メーカー大手4社の一角を占める同社であるが、この頃はまだ産声を上げたばかりであった。
佐藤は自身が運転していた自転車が道端の石ころに乗り上げてバランスを崩して転倒した時、田んぼに自転車もろとも突っ込み、その時、稲穂が車輪の回転に巻き込まれるところを見てとある考えに至り、いろいろな実験の末、高速に回転するものに稲穂を当てれば、効率よく稲穂が落ちると確信を得た。
史実よりも1年早く、13年に回転式稲扱機の発明に成功すると周辺農民に貸し出すことでリース業を同時に始めたのである。販売実績はそれほど大きくなくとも、自社もしくは地主がプールする回転式稲扱機によって定期的にリース料を得るということで安定した経営環境を確保することに成功したのである。
佐藤式回転式稲扱機の話題は欧州大戦により時局が切迫し始めた当時、瞬く間に全国へ伝わり、各地に支社を設置、大きな倉庫を併設したのであった。佐藤商会の支社には噂を聞きつけた地主たちが列を成し、飛ぶように売れ、また収穫期には高回転率の貸し出しを毎年記録することとなったのである。
これによって佐藤商会は安定した財務基盤の元で、新たな商品開発と製品の改良に投資を行うことが可能となったのだが、次に佐藤が世に送り込んだのが中耕除草器であった。これは史実同様17年に発売されたのであるが、これもまた農作業の省力化に大きく貢献することが実演の結果噂になりその年の収益を押し上げることになった。
また、動力脱穀機、動力籾摺機も矢継ぎ早に実用化すると惜しみなく従来通りの販売&リースでシェアを伸ばしていったのだ。
そして佐藤にさらなる転機が訪れた。
20年代半ばに至り、列島改造論が帝国議会で通過すると農林省管轄で農道建設が本格化し、東北や北陸、山陰など裏日本と言われた工業化が立ち遅れた地域へ優先的にこれらが建設されることとなったのだ。また、関東大震災によって土木重機が大活躍したことから土木重機元年ともてはやされる時期が重なった。
「農業動力化の時代だ」
佐藤の中で欠けていた最後のワンピースがカチッとハマった瞬間であった。
佐藤は陸軍省が提示した技術資料を入手すると早速土木重機の試作に取り掛からせるが、今まで扱ったことのない大物であったことから開発に難航するのであった。
「これはちと難物だね」
流石の発明王であっても荷が勝ちすぎたのかも知れない。しかし、転んでもただでは起きない男である。挫折から数日、彼はうんうんと唸りながらも自宅と会社を往復していた。だが、その日はいつもと違った。牛馬が犂を引き土起こしをしているところを見たのである。
「あぁ、これなら出来るかもしれん」
この時、彼の思いつきは農業界において革命的な効率化をもたらすことになるのであった。彼は自社製の焼き玉エンジンからの動力を土を掘り返したり反転させたりして耕す、つまり耕耘に用いることを思いついたのである。
元々、陸軍から提供された技術資料を基にブルドーザーを造ろうと考えていた彼であったが、エンジンの時点で十分な出力を得ることが出来ず実用化に苦労していたのだ。だが、耕耘機や農業用トラクターであればそれほど大きい馬力や排気量は必要なく、数馬力程度のエンジン出力で十分だと直感的に理解出来たのである。
「うちはブルドーザーをやらない。代わりに本業の農業機械に注力する。だが、発動機の開発は続ける。今は良いだろうが、必ず大馬力発動機が必要になる」
いつものやる気に満ちた佐藤の表情に社員たちも安堵するが、技術的挑戦という課題に武者震いがする思いであった。
国産耕耘機の発売は史実よりも遙かに早い時期に行われたこともあり、従来の佐藤製品とともに大きく農業機械のシェアを確保する原動力となったのだ。
その後、隣接する能義郡にフォード・ジャパンの自動車工場が建設されると佐藤商会はこれに接近する。彼らの目的はフォード社が実用化していると聞いた農業用トラクターであった。アメリカ国内において普及が進んでいるこれの技術を得るために接触したのである。
アメリカのフォード本社から出向していた支社長は佐藤から耕耘機を見せられると技術力の高さから即日ライセンス生産、技術移転について本社に取り次ぐと返事を出したのであった。彼らにとっても商機であった。農業用トラクターの生産設備などは持ち込んでいないこと、その需要が不透明であったことから控えていたこともあり、二の足を踏んでいたが、佐藤商会がパートナーとなり得ると認識すると積極的に応えていく姿勢を見せたのである。
しかし、同時に佐藤商会のエンジン供給能力が低いことから、エンジンのライセンス生産は許可せずフォード・ジャパン能義工場から広瀬鉄道を経由して佐藤商会の揖屋工場へ運び込むこととしたのである。
佐藤は運び込まれたエンジンを修理技術習得のためという名目でバラすと早速リバースエンジニアリングによってその技術や構造を分析し自社の技術力向上に役立てた。無論、すぐに製品に反映させることはしなかったが、フォード製エンジンの良いところを吸収し、問題点や改善点を把握すると生産設備の拡充を行った上でフォード・ジャパンに発動機生産の技術移転を持ちかけたのである。
フォード・ジャパンも佐藤商会がコソコソとリバースエンジニアリングを行っていたことは気付いていた。だが、真似出来るものなら真似してみろとたかをくくっていたのである。しかし、結果はフォード・ジャパンが驚く精度でエンジンを生産してしまったのだ。
その背景には最新式の工作機械を調達し、その習熟、品質管理を徹底して行った結果があったのだ。そしてフォードの技術と自社技術を融合させた発動機を作り上げたことでフォードを結果として出し抜いたのである。
これによって佐藤商会は地盤を固めたのであった。
それから約10年……。
佐藤商会は社名を佐藤造機と変更すると満を持して土木重機の製造に取り掛かったのである。




