多用途フリゲート構想
皇紀2594年 7月 帝都東京
史実戦後ドイツはMEKOと称する多用途フリゲート構想(MEhrzweck-fregatten KOnzeptと)を打ち出し、輸出用汎用軍艦シリーズとして売り出した。兵器や電子機器、その他の装備品をモジュールとしてまとめることによって保守整備の手間やコストなどを低減させるコンセプトであるが、これは各国海軍の要求項目の違いをモジュールパターンで最低限のコストで賄うことが出来、希望に応じた性能の艦艇を安価に手に入れることが可能となった。
また、仕様上、容易に兵装の転換が可能であり、改装による性能向上も容易であること、改装工期そのものの圧縮が可能であることが最大の武器であった。70年代後半にナイジェリア海軍が第1号艦であるMEKO360H1型を発注、以後、中小国が50隻程度採用している。
さて、そのコンセプトがこの世界には早くも登場しつつあった。
帝国海軍にはフリゲート、コルベットと称される艦種別は廃止されて久しくなるが、艦政本部のヌシと化している平賀譲造船中将が音頭をとる形で復活の兆しを見せている。元々海軍大臣大角岑生大将によって研究を命じられていた平賀にとって遂に機会到来と言うべきものではあったが、その前に藤本喜久雄造船少将と野心にあふれた造船技官によって春雷型水雷艇が誕生し計画が遅れてしまったことは痛恨事であった。
軍令部側は天雷事件の後、改春雷型水雷艇構想を提案したが、平賀はこの機会にと重量配分の適正化、電気溶接の技術的進展によって1000トン級(公称800トン)の多用途艦を大々的に打ち出したのである。この時、大角や艦政本部長になった中村良三大将(6月に昇進)は平賀案を強く後押しすることでを軍令部案を押し切り、35年度予算に盛り込まれることとなったのであった。
支那方面艦隊から警備哨戒用砲艦、連合艦隊から決戦用水雷艇が望まれ、陸軍からは輸送船団や上陸部隊の護衛艦艇を整備するために技術供与を要求された経緯から1000トン級多用途艦は船体の共通化を行うことが海軍省の裁定で決まった。
元々は水雷艇と砲艦の兵装転換を容易にするという目的であったが、護衛艦艇としての役割まで含まれたことで平賀は設計案を一端撤回し、改設計を行うこととした。
「進水まで半年、竣工まで1年……いざ戦時下となれば、さらに圧縮して8ヶ月で竣工可能」
再度開かれた多用途艦策定会議において平賀は大見得を切った。
実際に川南工業は主力工場である香焼島工場とは別に伊万里、大島、松浦、川内、徳島に工場を増設し、それぞれ機関や各部パーツを分割して量産する体制が整いつつあったことから、実際にはさらなる工期短縮は可能であり、最短で6ヶ月で竣工可能と見積もられている。
主請負企業として指名されている川南工業にとっては量産型のタンカーなどと同じく、各地の工場で造った各パーツを持ち寄って組み立てるだけであり、毎月出渠すら可能と豪語していたくらいである。とは言っても、いくら転生者である川南豊作が音頭をとってのこととは言えど、受注している民間船舶の建造が終了してからの話であるため、各パーツの組み立てが可能となる日はまだ先のことではあった。
基本的には史実鴻型に準拠した船体であるが、長船首楼構造であり、船内容積に余裕があり、居住環境は良好である。ロ号艦本式罐と艦本式タービンがそれぞれ2基装備された2万5000馬力、30ノットを発揮する。
基本型である水雷艇には備砲として四〇口径八九式一二糎七高角砲が単装3基、九四式三十七粍機銃が4連装1基、61cm3連装魚雷発射管が1基装備されている。
砲艦は四〇口径八九式一二糎七高角砲が単装2基、九四式三十七粍機銃が連装2基装備され、領事館機能が完備されている。これは司令部施設としての運用も可能である。
護衛艦には四〇口径八九式一二糎七高角砲が単装3基、九四式三十七粍機銃が連装2基、単装8基、爆雷投射器Y字型1基、艦尾爆雷投下台1基、爆雷60個が装備されている。
基本的に水雷兵装を撤去したスペースの活用であり、長船首楼構造による船内容積の拡大で格納スペースが確保されている。
喫水が浅いことで長江など河川遡上も可能としているが、トップヘビーを避けるため重油タンクの一部を死重として活用している。また、支那方面での運用を前提としていることで強力な江水濾過装置が装備され飲料水の供給能力を備えている。
将来的に四〇口径八九式一二糎七高角砲は後継の両用砲への換装が計画している。




