電気溶接という鬼門
皇紀2594年 5月 帝都東京
ニクロム線こと平賀譲造船中将は和解した藤本喜久雄造船少将とともに造船技術と溶接技術の向上蓄積に数年の歳月を注ぎ込んでいた。
それもすべては軽量化、高速化、量産性の向上、工数削減が日本造船界における至上命題であったからだ。
日本における造船業は大英帝国を範として経験を蓄積しつつ独自性が花開きつつあった。だが、どうしても技術系譜では大英帝国の影響を色濃く残しており初の国産戦艦と言われる薩摩型、世界最大にして初の3万トン台超々弩級戦艦扶桑型、それの改良型である伊勢型であっても何れも大英帝国の既存戦艦や金剛型を基礎としている。
これは悪いことではなく、技術的な冒険が少なく軍艦というものにおいて堅実であることはむしろ優れた資質である。だが、それでもいくつかの失敗や欠陥が重なると途端に扱いに困る存在が出来上がるのだが、それの代表例が扶桑型であった。
長門型において完全な国産化が達成されたと一般的には思われているが、その長門型でさえ、重箱の隅をつつくような真似をせずとも技術上は大英帝国の系譜がいくつも散見される。
しかし、巡洋艦においては独自進化を遂げることとなった。
この世界における古鷹型は重巡洋艦ではなく、史実における軽巡洋艦規格として建造され、また最上型は重巡洋艦という名を持つ超重巡洋艦規格で誕生している。
古鷹型の建造には電気溶接は部分的に取り入れられてはいたが、あくまで技術蓄積上は溶接にしても問題ない部分に限って全面的に採用しているだけで、重要部分に関しては従来の鋲接としていた。そして最上型では民間船舶における電気溶接の普及で蓄積した知見を基に電気溶接区画を増やしていた。だが、それでも全面的な採用を行うには慎重であった。
と言うのも、史実における友鶴事件と第四艦隊事件に相当する艦艇損傷事件がいくつか発生していたからである。
史実では34年3月の友鶴事件、35年9月の第四艦隊事件の結果、電気溶接が中断され鋲接へ回帰することとなったが、この世界では美保関事件が史実と同様に27年8月に発生しているが、そこが分岐点となっていた。ちょうどジュネーヴ軍縮会議の頃である。
史実の美保関事件では川内型軽巡洋艦と二等駆逐艦が衝突事件を起こしていることで発生していたが、衝突事故ではなく、台風の影響であった。まさに遡って第四艦隊事件が起きていると言うことだ。
この時、特型駆逐艦は各地の造船所で建造中、または進水後に公試中という状態であった。そして美保関沖における演習中であった第三艦隊は新鋭の吹雪型を公試ついでに性能評価を行う名目で帯同させていたのである。
たださえ荒い日本海の波浪が、台風の影響でさらにその威力と荒々しさを増している中で行動中であった第三艦隊の各艦は波高20mにも達する三角波をまともに食らうこととなった。転覆、沈没する艦は存在しなかったが、しかし、電気溶接を多用した特型駆逐艦は4隻揃って艦首切断という前代未聞の大被害を受けていたのだ。他の艦艇も艦橋圧壊、艦首破損といった被害を受けていたが、船体が破断するという被害を受けていたのは特型駆逐艦だけであった。
この事態から艦政本部は電気溶接施工した艦艇だけで被害が大きかったことを問題の原因であると考え徹底的に検証を進めることとなった。この際に、船体構造の欠陥という点が判明したが、それが原因であると断定し、電気溶接技術が未熟であったことが致命的なダメージを弱点であった構造上の問題箇所に与えたと結論づけることとなったのである。
そのため、古鷹型建造時には鋲接を基本とすることで船体の脆弱性を回避することにしたのであった。
そして33年9月にも荒天時での訓練で転覆事件が起きていたのである。事実上、友鶴事件の再現である。平賀と藤本などは軍令部が要求する水雷艇構想に異を唱えたが、軍令部の覚えめでたい艦艇設計者が太鼓判を押す仕様を提出したことで建造が推進、春雷型水雷艇が4隻建造されたのである。
この春雷型水雷艇は史実の千鳥型水雷艇と同じく復元性が著しく低い艦艇となったのだ。原因は無論言うまでもないが、トップヘビーである。設計者は「駆逐艦並みの装備を基準排水量500トンで実現」と大見得を切っていたが、夕張型軽巡洋艦での成功で造船の神様と称される平賀への対抗心であるのは誰の目にも明らかであった。
軍令部からの要望を平賀が強行に受け入れなかったことで、軍令部側が策を講じて平賀に海外出張させたのである。この隙に軍令部側の覚えめでたくありたいと自身の野心に正直であった設計者が藤本に提出、藤本も元々技術的蓄積の不十分な新技術を用いて目標を達成しようとする姿勢であったことから同情的で有り軍令部の要求に沿った設計を条件付きで認めてしまったのだ。
出張から戻った平賀は藤本に激怒し、同時に海軍大臣である大角岑生大将のもとへ急ぎ、撤回を求めたが既に時遅く建造計画は承認され予算執行してしまっていたのであった。
軍令部側は16隻程度を要望していたが、大角が難色を示したことで予算が付いたのは結局1個水雷隊4隻ということになったのだ。だが、予算が付いたものは建造が行われるのが常、平賀の抗議も空しく建造はスタートしてしまったのだ。
電気溶接を多用することで春雷型水雷艇は大幅に排水量を低減したが、計画500トンに対して実際は600トンと2割も増加していた。これは藤本が「せめてこれくらいは……」と修正したことで増えた分だが、それでも明らかなトップヘビーであった。
「これでは友鶴の二の舞だ……」
平賀はそう呟くが既に遅い。平賀の懸念は最悪の形で的中する。
佐世保沖において夜間演習を行っていた水雷戦隊に春雷型水雷艇は参加していたが、この時、折からの荒天によって波浪が高かった。他の艦艇よりも遙かに小型で軽量である本型式は木の葉のように揺られ、一際高い波を被った際にひっくり返ったのである。
1番艦である春雷は傾斜復元したが、2番艦の天雷は耐えきれずに転覆、3番艦の迅雷と4番艦の秋雷も傾斜復元したものの浸水を招き沈没しかけるという惨事を引き起こした。他の艦が難なく傾斜復元をする中で、復元性に疑問符がつく事態を招いたことは大きな問題となったのだ。
これによって艦政本部長杉政人中将は更迭となったが、彼に責任があったわけではなく、事件発生時にたまたま艦政本部長であったために詰め腹を切らされただけであった。これには人事権者である大角も気の毒に思い、自身が関係を深めている川南工業へ再就職を斡旋している。無論、それには川南工業を監督下に置くことが目的の一つであったが。
こうして用兵側は過剰な兵装を積んだ艦が自分たちの首を絞めるという経験を積むことになるのであった。美保関事件と春雷型事件において300名近い殉職者を出すことで彼らは貴重な知見を得たのであった。




