電力問題<10>
皇紀2594年 4月 帝都東京
松永安左衛門は黒部川水系の開発の主導権を握ることで日本電力から関東地区のシェアを結果として奪うことにも成功していた。
34年の春には中小規模の電力会社を除くと概ね以下のような電力勢力図となっていた。
東京電燈:東北・関東・甲信越・東海
東邦電力:中京・関西・四国・九州
日本電力:北陸・京都・滋賀・兵庫
宇治川電気:大阪・奈良・三重・和歌山
大同電力:関東・中京・関西への送電専業
中国地方は東邦電力、日本電力の他に地元資本の山陽中央水電、中国合同電気、広島電気、出雲電気などが割拠する状態であった。また、北海道は北海道電燈や函館水電などが割拠している。
松永は東京電燈の重役に納まるや関東地区、東北地区の電力再編に打って出て合併併合を繰り返し、送電網の整理と需給バランスの適正化を図っていた。
東北の水力発電所から帝都東京へ至る送電幹線を常磐海岸筋と上越筋と奥州街道筋に建設させることで関東における給電に活用させることで新規発電所の代用として当面活用することにしたのだ。鬼怒川水系のダム連続建造と黒部川水系開発に巨費を注ぎ込んだことで東京電燈単体では事業費が不足したからである。
だが、地方の余剰電力を帝都東京へ送ったところでたかが知れているため、いずれにせよ発電所の増設は待ったなしであるのは変らない事実であった。そこで松永は苦渋の選択として内務省と商工省に利根川水系の開発を持ち込んだのである。
そしてそれが商工省・内務省・大蔵省を巻き込む後の「電力騒動」と呼ばれる一件に繋がるのである。結果から言えば、この騒動に鉄道省まで首を突っ込んだことで思いも寄らぬ方向へ進んでいくことになる。
松永にとっては補助金によって建設費を肩代わりさせ、電源開発を行えればそれで良かったのだ。
しかし、大蔵省は補助金の支出を拒み、商工省は電力行政を統制することを望んだ。また、鉄道省は上越本線の清水及び新清水トンネルは当初から電化されていたが、高崎-水上及び石打-長岡-新潟間は非電化であり機関車付け替えの手間があることから一気に電化したいと考えていたのだ。
清水トンネルが31年に開通するが、追って掘削した新清水トンネルが33年に開通すると東京-新潟間の列車本数が増大し、鉄道省としても全線電化を真剣に検討していたのである。特に鉄道省は列島改造の名の下に主要幹線の複線化・標準軌化が30年代に入って殆どが目処が立っていたこともあり、大量に雇い入れていた土建業界の整理を行う必要があったのだ。
そういう点で黒部川の開発などは再就職先にうってつけであり、まとまった期間の雇用が見込めたこともあって斡旋していたのである。
鉄道省の下心は松永にとっては都合が良いモノであったが、問題は資金である。水利権そのものは傘下に収めたり合併した中小電力や引き継いだモノで工面出来たが、巨額の建設資金を調達するには政府事業である必要があった。
市中銀行にとって融資先はいくらでもあり、条件が良ければいくらでも貸してくれる状態にあったが、流石に松永が提示した額は銀行団にとっても想定外の数字であり、幹部クラスですら首を横に振る始末であったのだ。
「鴨緑江の電力事業は進んでおるというのに内地ではこのザマか」
松永は悔しそうに固く唇を噛みしめるが、如何ともし難かった。
そう、大蔵省もまた松永と同じように同規模の予算を突きつけられて頭を抱えていたのだから仕方がないのである。




