電力問題<7>
皇紀2594年 4月 帝都東京
こうして内地、満州朝鮮と電源開発は進んでいたのであるが、内地の電力需要は景気拡大とともに右肩上がりでとどまることを知らない。
34年の年初には建設中であった内地の水力・火力の各発電所は概ね出揃った。この頃には史実の43年頃の290~300万kw程度の発電力は確保されていたとは言えども、電化製品、特に家電と工場における工作機械などの普及が需要を押し上げていた。
鴨緑江の電源開発で160~200万kWを押し上げようとしているが、それが内地の総電力の半分にも及ぶ大事業であることがこれだけでも読み取れる。
「電力戦」の結果、「電力王」から「電力の鬼」とその二つ名を変えた松永安左衛門は鴨緑江開発の話を聞くと全国各地に水力発電に適した土地を調査するべく東京電灯、東邦電力の各社員に動員を掛けたのである。
「内地にも鴨緑江に負けぬ発電に適した要地があるはずだ! 探すのだ!」
鬼のような形相と評すべき彼の檄が飛ぶ東京電灯の社屋にはひっきりなしに測量技師や地質学者が出入りしていた。特に東京帝国大学から地質学者が引き抜かれ動員されていたのである。
この頃、電気機器や金属材料において東北帝国大学に一方的に差を開けられていた東京帝大は東北帝大に負けぬように航空工学や地質学、建築学などに力を入れていたのだ。何れも関東大震災や内外事情による影響であったが、この学術研究競争は帝国の技術力に大きく寄与していたのだ。
中島飛行機や三菱航空機などは東京帝大航空工学チームに大きく投資を行い、大規模風洞施設などを筑波に建設された学研都市である新東京市に構えていた。ここでの研究結果、実証試験は航空メーカーに貴重なデータを提供しているのである。
話が逸れたが、地質学も同様に力を入れているのは地震災害という問題へのアプローチの一環であり、また鉱物資源の確保という至上命題への取り組みでもあった。ダム建設やトンネル建設には地質学は切っても切れない関係であり、また建築学も建築構造という点で必須である。
自然、電力会社が東京帝大と結びつきを強めることになるのであった。
「電力の鬼」の檄によって東京帝大には多大な調査費用が流れ、大学の師弟は一致して事に当たることになるが、彼らも人海戦術だけあってそうそう成果が出るわけではない。ただでさえ、大規模事業が列島各地で行われ、満朝国境で進行中である。彼らにも限界があった。
内務省からは電力会社に治水も合わせて行う様に多目的ダムとしての建設が望ましいと要求があったため、彼らの選定基準は難易度が上がることとなった。
「利根川水系で治水も行えれば望ましい」
内務省からの要望に沿って計画を進め鬼怒川水系の川治温泉付近の谷筋へ2ヶ所適切な場所が見つかったのであった。元々五十里ダム計画が進行していたが地質の悪さから再度調査をし直していたのである。
しかし、ダムサイトを川治温泉直上にすることで問題がないことが確認されると鉄道省日光線から引き込み線を建設し、すぐに着工することとなった。元々がダム開発で移転計画があったことで補償問題は殆どクリア出来ていたからこそのことであった。
同時に五十里ダムだけでなく、川治ダムの建設も隣接して開始されたこともあり、川治温泉と鬼怒川温泉は作業員たちにとって格好の癒やしの場になり、地元経済に大きく寄与することとなったが、それに伴って川治温泉までの工事用引き込み線を定期運行可能な旅客線へと転用することが決まり、一部線形の改良が行われ、鉄道省と東武鉄道が直接乗り入れ出来るようになったのだが、同時にスキー場の開発も行われ一大レジャー地区へと変貌したのであった。
33年に始まった鬼怒川水系の電源開発は内務省にとって水害防止、商工省にとって電源確保、大蔵省にとって税収確保という面で大きな成果を上げていたが、それでも確保出来る発電能力は2つのダムをあわせても10万kW程度であった。
「こんなものでは足りぬ」
事業計画としてはスタートはしているが松永の求めるものはそんなものではなかった。
「100万kWの発電が可能な発電所でなくては意味がない」
松永は苦虫を噛み潰したような表情で報告書や計画概要を見ながら呟く。10万kW程度であれば火力発電所を造る方が安上がりで工期も短いのだ。だが、治水という観点からダムの効果は否定出来ない。故に鬼怒川水系の開発を引き受けてはいたが、不満ではあった。
「日本電力が考えておる黒部川は……」
水利権の問題があることですぐに手が出せるわけではないが、大きな落差と豊富な水量、そして水没しても問題がないことは大きなメリットであった。
しかし、逆に言えば最低最悪の工事条件であった。




