電力問題<5>
皇紀2594年 4月 帝都東京
東邦電力は中部・関西・九州を本拠とする五大電力の一角であり、源流は名古屋電灯と九州電灯鉄道である。
まずは名古屋電灯が関西水力電気と21年に合併し関西電気となるが、この21年に名古屋電灯は関西水力電気と合併する直前の5月に愛知県半田の知多電気、9月には天竜川開発を手がける天竜川水力電気および京都府の山城水力電気、それぞれと合併契約を締結した。そして9月半ばに関西水力電気・名古屋電灯の合併が逓信省に認可されている。
中部地区におけるシェアを確たるものにしつつ、関西地区にも奈良県を中心にサービスエリアを得ることとなった。存続会社は関西水力電気であったが、名古屋電灯の1/10の規模の会社であり、逆さ合併であったが、実態は名古屋電灯による吸収であった。
その後、九州電灯鉄道と22年に合併し、東邦電力と改称し、国内最大手の列に加わることとなったのである。そして、後に電力王、電力の鬼と称される男が遂に表舞台へと姿を現すのである。
そう、松永安左衛門の登場である。
松永が22年に副社長に就任すると矢継ぎ早に手を打っていくのであった。まずは東邦電力の設立と同時にガス事業を東邦瓦斯として独立、同様に電気機器を扱う東邦電機工作所が独立したのである。これによって事業ごとに独立採算制を取ったのだ。また、管内を東西に分割し、関西支社・九州支社を置いてそれぞれ業務を統括させ、地域ごとの需要に即した経営が可能なように柔軟な体制を取ったのである。
同時期に東京電灯は関東地区において合併とシェア拡大を図り、関西地区で宇治川開発を目的に発足した宇治川電気がそれぞれ急速に拡大していた。また、名古屋電灯から派生した大同電力、宇治川電気の姉妹会社として設立された日本電力の2社が積極的な水力開発により電力卸売り会社として台頭している。
松永が社内の態勢を整えると次に照準を定めたのは帝都東京であった。五大電力の最大手といえる東京電灯の牙城である帝都東京に「電力戦」を仕掛けたのだ。
手始めに静岡県を根城にする早川電力との関係強化であった。浜松地区は東邦電力と早川電力が重複していたことで競合状態の解消、そして富士川水系の早川での電源開発と帝都東京への送電網開設事業が狙いであった。
関東大震災の影響で帝都東京への送電網開設が頓挫していた早川電力は事業が行き詰まりを見せていたことから松永の目には好機と見えていたのだ。
早くも24年春には早川電力の株式を引き受け東邦電力の支配下に置くことに成功すると早川電力の経営環境を整え3年以内の合併を指し示したのだ。この時、既に群馬電力の経営権を得て、同時に配電先として京浜電気鉄道の沿線配電事業を買収することで利根川水系の水力発電所から川崎地区への送電を開始していたのだ。
早川電力と群馬電力という二つの傘下電力会社を抑えて帝都東京へ乗り込む準備が出来た松永は25年に名古屋-浜松の大送電線を建設、26年には帝都-名古屋間の送電経路を打通したのである。また、山梨県内に水力発電所を増設し東京府西部及び神奈川県への発送電を強化したのだ。
満を持して25年4月1日、史実より数日遅れてではあるが早川電力と群馬電力が合併し、東京電力が設立された。
「電力戦」は松永率いる東邦電力系企業集団の一大攻勢から始まったが、この大攻勢は表面上は大きな成果を出していた。京浜地区における電力再編という結果をもたらし、同時に十分な電力の供給と安価な電気料金という需要家から見たら望ましいものを示していたからだ。
だが、逆に言えば、東京電灯も東邦電力系(東京電力)も経営環境が健全であったかと言えば必ずしもそうではなかった。株式配当は僅か3年間で10%台から7%台まで低下していたのだ。ここに危機感を募らせていたのは当の本人たちではなく、融資を行う側である主要銀行だった。
両社に対して巨額の融資をしていた三井銀行・安田銀行は「電力戦」の即時停止と合併をしきりに要求したのである。
「両社が貸し倒れになっては元も子もない。今なら手当てをして十分癒やせる」
銀行同士で共闘し圧力を掛けることで合併を迫るが、両社ともに隔たりが大きく、一向に歩み寄る気配を見せなかった。
「我々銀行団は両社への融資を停止するが、それでも良いのか?」
しびれを切らした銀行団が一方的通告を両社に行うと流石の松永も事業資金がショートする恐怖を感じ歩み寄りを見せたのだ。
「存続会社は東京電灯で良い。対等合併、そしてこの松永を取締役として参画させること」
この提案に東京電灯側は感情的なしこりから拒絶をするが、東京電灯:東京電力=10:9の比率と松永の取締役就任を条件とし合併することで手を打つことにした。
そして28年4月1日付けで両社は合併し、東京電灯が東日本最大の電力会社として君臨することとなった。




