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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2594年(1934年)

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電力問題<2>

皇紀2594年(1934年) 4月 帝都東京


 大日本帝国において電力が逼迫し始めた事情は関東大震災に遡る。関東大震災の復興に際して帝国政府、陸軍省、内務省、東京市は災害に強い都市開発を目指した。


 東條英機の指揮によって地震からの火災発生は極力押さえ込んだが、それは昼時に地震が来るという転生におけるメタ情報で地震避難演習を発生時間帯に行うという意図的な操作によって為し得たもので、帝都及び横浜・横須賀などの重要都市以外の近郊都市などでは史実通りに地震火災が発生し市街地を焼き尽くした。


 特に震源に近い小田原などは市街地の半分が焼失し、一部では火炎旋風や火炎合流が発生したことで甚大な被害が発生していた。これは小田原に限ったことではなく、関東各地の地方都市でも規模は兎も角として同時多発的に発生したことで東條論文の正しさを証明していた。


 地震避難演習名目で統制されていた帝都及び横浜・横須賀に関してはごく少数の火災に押さえ込むことが出来たが、仮にこれが平時の昼飯時、夕飯時であったならば未曾有の大火になっていたことは小田原などのそれで帝国の政治中枢には認識されたのであった。


 とは言っても、災害に強い都市開発とはどうすべきか、誰もがそこに答えを持ってはいなかった。


 しかし、都市機能、特に首都機能の復旧は優先であり、関係者たちは大筋の方針を決めて、適宜対応するという方向性を打ち出したのである。


 1,道路の幅は極力30~50m程度を確保、別に歩道分に2m程度の確保

 2,市街地の舗装道路はコンクリートを打設する

 3,上下水道の整備

 4,各種電線の地中埋設

 5,高層建築の耐震、免震構造の採用

 6,かまどの全廃とガス化

 7,電灯の普及など電化促進


 これらは適宜推進されることで災害に強い都市に次第に切り替わっていくというものだった。


 そんな中で、陸軍の兵営に普及しだした電気炊飯器が官庁に噂になり、各省庁の職員食堂に導入されるとその便利さと発火の恐れがないというメリットが震災復興関係者たちに注目されたのであった。


 元々業務用という形でしか販売していなかった有坂電機製の電気炊飯器は小型化と安全性強化の上で家庭用に売り出されることとなり、また、東京瓦斯電気工業や五大電力と言われる電力大手の東邦電力・東京電灯・宇治川電気・大同電力・日本電力なども電気炊飯器を自社製品の品目に加え、電力供給契約している各家庭に売り込みをかけたのであった。


 この時期には扇風機の製造販売が普及していたが、やはり高価であったこともあり貸付制度を利用して家庭での使用を行っていたが、有坂電機はこのシステムを電気炊飯器の販売にも適用し毎月割賦で2年後に返還不要にするという販売方式をとったのである。一種のリース形式だ。


 この販売方法は大当たりして都市生活者に大いに活用されることとなったのだ。ラジオ販売にもその時の経験は活かされることとなり、有坂一派の政治的プロパガンダと有坂コンツェルンの企業広告に活用されることとなるが、それは別の話である。


 関東大震災からの復興の時期は電力供給も余裕があったからこそ、電機メーカーや電力会社がこぞって家電製品の開発と売り込みに注力していたのであるが、それには理由があった。


 欧州大戦後の好景気で電力開発が推し進められ、特に水力発電による電源開発が中部地方を中心に進められ、木曽川、揖斐川、飛騨川などにはいくつもの電力ダムが建造されたのである。その開発も一段落して十分な発電量が確保出来た20年代には好景気の反動で不景気となっていたのだ。


 そんな時期に総理大臣原敬に取り入った有坂総一郎の列島改造論によってカンフル剤を打ち込まれた日本経済は次第に活気に満ち、関東大震災の復興に伴って電力需要は次第に上向くことになったのだ。それでもまだ全電源に対して需要電力に余裕があったのだ。


 しかし、それもつかの間の出来事であった。電力需要は電力会社の予想よりも斜め上に伸び、30年代後半には全電源の供給を上回ることが明白になっていたのである。彼らも流石にそれには焦りを感じざるを得なかった。この時点での日本国内における電源の割合は7~8割程度が水力発電によるもので、その工期は最低でも2年は掛かるものであり、10万kw台のものはそれほど多くなかった。


 だが、それでもこの頃は十分であったのだが、電力大手が危機感に苛まれていた頃にはその発電機や導水路の拡充で対応は進めていたものの、焼け石に水であった。工期が短い火力発電所の拡充で当面の需給バランスを取ろうと画策していたが、電力会社にとって水力発電こそが本命であったのだ。


「やはり、水火併用をやらねばならん……」


 日本電力、大同電力、宇治川電気等が水火併用の考えのもと比較的大規模な火力発電の新増設を企画し京都電燈を加えた4社による関西共同火力発電会社の設立が31年に行われた。これは東洋一の火力発電所と自負する尼崎第一発電所30万kwの建設と同時に発表されたのである。


 関西地区で水火併用論が大手を振るようになった頃、同様に関東地区でも電力の増強が始まったのだ。史実よりも東西で5年程度早く一大発電所の建設が進められていた。東日本においては鉄道省が信濃川発電所6万kw、同じく東京電燈が信濃川発電所17万kw、鶴見火力発電所11万kwと次々と大規模な発電所を建設していた。


 しかし、それを嘲笑うかのように電力需給バランスは一向に改善の様子を見せないのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] いえ、現代のレアメタル触媒室内で水素と反応させるタイプではなく、50年前の石灰と排煙を混合焼結させるタイプです。 副産物は水素化と異なり固体なので、冷却しにくく付帯設備が大型化しますが発電…
[一言] 脱硫装置とセットで火力発電所更新すれば大気汚染も無くなり副産物の石膏を建物の耐火が進みますね(昭和30年代の技術)
[一言] 39話で取り上げた耐震構造の話が出てきましたね。 関東大震災後も出てこなかったのでどうなったのか気になっていましたが、 採用されたということは震災前に建てた建築物の成果が出たようで安心しまし…
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