日本製鐵株式会社
皇紀2594年 1月29日 帝都東京
商工省主導によって水面下において日本製鐵株式会社の設立と製鉄業界の再編が進められていたが、遂にこの日実施されることとなった。
統合の経緯は複雑であった。
史実と異なり、鉄道省の列島改造論・弾丸列車構想、海軍省の民間造船施設拡充に基づく鉄鋼需要の急増、そしてフォード、GM、中島飛行機、東京瓦斯電気工業といった自動車産業の勃興と鉄鋼需要は右肩上がりであった。
各鉄鋼メーカーはその旺盛な需要に応えるべく日本各地で製鉄所の増設拡充を推し進めていたが、各社にも事情がそれぞれあり一筋縄ではなかったのだ。
政府系である官営八幡製鐵所もまた政府出資によって増資と生産設備の拡充を進めることが出来ていた。西八幡地区の洞岡高炉群の建設前倒しや戸畑地区の埋め立てなど積極的な投資を推し進めていた。年産100万トン製鉄を成し遂げていたのであった。
九州製鋼は官営八幡製鐵所の系列会社であったことから統合の対象となり、商工省からの介入は比較的早期から始まり、官営八幡製鐵所の一部門・一工場という状態になっている。だが、大規模高炉を有するため、生産力は他社とも太刀打ち出来る水準である。
三菱財閥系であった三菱製鐡は財閥内の各企業や三菱銀行などの出資で資金を確保し、朝鮮を中心にその生産力を高め、近隣の金山浦からの鉄鉱石確保によって史実を倍する70万トン規模にまで成長させていたが、原料の鉄鉱石の品位は良質であったが、コークスの入荷状況によって生産実績が上下するという問題を抱えていたのだ。
同じく三井財閥系の釜石鉱山も生産能力を高め市場占有率の確保を目指していたが津波被害による復旧などが経営に影響を受けていた。日本初の銑鋼一貫製鉄所でもあり、最重要投資対象であったが、昭和三陸津波で工場施設の損害が軽微であったとはいえども地域社会の混乱の影響は大きく、生産に未だに影響が残っていた。
輪西製鐵は日本製鋼所から室蘭工業所が分離して設立された経緯を持ち、釜石鉱山と同じく三井財閥系である。原料として噴火湾一帯の砂鉄、倶知安や京極など虻田郡に点在する鉄山から鉄鉱石が運び込まれている。
そして最後の富士製鋼であるが、ここは製鉄業界で尤も弱体であった。永野重雄が渋沢栄一に見いだされて支配人兼工場長に就任し倒産状態から持ち直したのは史実と同様であった。鉄鋼需要が右肩上がりの中で倒産状態であったのは純粋に他社に比して規模が小さかったことが大きい。規模が小さいが故に他の大手に受注を独占されてしまい回ってくるのは下請け的な仕事が多かったのだ。しかし、帝都にほど近い川崎に工場を有していることから京浜工業地帯への出荷が専らであったが、それ故に中島飛行機とのつながりが生まれ大きく発展する素地となったのだ。
他にも川崎造船所、神戸製鋼所は不参加を表明し、浅野財閥系である日本鋼管、浅野造船所、浅野小倉製鋼所の三社は資産評価に不満を表明して参加を拒否した。この動きは史実とほぼ同様であった。この事態に商工省は浅野財閥に対して懲罰的に溶鉱炉の新設を許可しないと発表し、大いにもめることになったのであるが、結局浅野財閥側は折れることなく資産評価のやり直しを要求し続けたのであった。
流石の商工省もそこまで突っぱねられると他社が同調しかねないとして浅野系三社の統合を断念することを正式発表した。その際に岸信介ら若手の革新官僚は苦渋の表情であったという。
日本製鐵の成立は商工省が鉄鋼業界の統制がしやすい体制になったという側面もあるが、官営であった八幡製鐵所を民営化することで規制の範囲外に置くことで経営の弾力化を狙った側面もまたあったのだ。
雁字搦めの官営でなくなったこの日、八幡製鐵所を中心とする日本製鐵は世界的鉄鋼メーカーと覇を競い合うことを運命づけられたと言っても過言ではない。かつて鉄血宰相ビスマルクが述べたように総力戦は「鉄と血」によって解決するのだ。そして鉄は国家を強くする力の源泉なのである。
そして日本製鐵成立の報道に接した転生者たちは同じ言葉を呟く。
「まだまだ鉄の生産力が足りない」




