復活の勇人
皇紀2594年 春 広島県吉名
一人の国士が奇跡の復活を遂げた。彼の名は池田勇人。史実では吉田学校を経て総理大臣の椅子に座った人物である。
広島の造り酒屋に生まれた彼は京都帝大を卒業した後、大蔵省に入省、税務官僚としてその人生をスタートした。函館税務署長に赴任する前に維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚。後に宇都宮税務署へ赴任する。
だが、彼には史実同様に過酷な運命が待っていた。不治の病であると言われる落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職することになったのだ。
それから数年、彼にとっての歴史は史実と同様に推移した。彼を看病し続けた妻は心労が故に遂に斃れ帰らぬ人となった。だが、彼はまだ見捨てられていなかった。彼の実家は本腰を入れて彼の看病に当たれるように態勢を整えていたのだ。
彼がボロボロの体で吉名の実家へ帰還してから24時間態勢で数名の看護係が自殺防止と世話をしているが、その中に遠縁の親戚の娘である満恵はいた。彼女もまた直子と同様に献身的な看護を続け、絶望的なほど悪化していた症状の治療にあたった。
池田はこの時絶望感から「いっそ楽にしてくれ」と願ったが、彼の周囲はそれを励まし手厚い看護で支え続けたのである。
吉名に帰還してから2年、1934年に至り、彼の体には変化が起きた。ただれた皮膚の瘡蓋が剥がれるとその下に綺麗な皮膚が現れたのだ。その日を境に彼の症状は劇的に変化していく。
彼は復活を確信した。
「わしは戻ってきたのだ……」
その目には光が灯っていた。
池田は復活すると同時に精力的に動き出す。彼の周囲は今暫くの養生をすすめたが彼は首を横に振るだけだった。
「5年もの間鬱屈としておったんじゃ、これからは遅れを取り戻さにゃならんけぇの!」
「でしたら、望月先生に口利きをお願いしませんとね」
「そうじゃ、望月先生に詫びを入れてから頼まんとの」
池田の大蔵省入省には同郷の望月圭介という代議士の力添えがあったのだが、難病とはいえ退官することになったことで池田は不義理を感じていた。故に筋を通そうと考えたのである。
数日の後、池田の元に望月から病気快癒の祝いと同時に仕事の斡旋と内定の知らせが届いた。
「さすがは望月先生じゃ、話が早い」
この時、吉名には桜の花が満開を迎えていた。
皇紀2594年 春 帝都東京
「オオクラショウ カヤオキノリ イケダハヤト カイユス ワガキカニ クワエントホッス」
この日の朝、一通の電報が有坂邸に届く。発信者は大蔵官僚である賀屋興宣。賀屋は池田と同郷であり、主計局長に就任したばかりであった。
賀屋はこの時、大蔵省内三羽烏の一角に数えられ、他の二名と出世レースと派閥争いのまっただ中にあった。彼にとって手駒は必要であり、同郷人である池田は賀屋にとっても信頼の置ける人物であった。
退官前の時点でも池田は税の鬼として辣腕を振るっていたことから賀屋の目にもとまっていたが、リタイアしてしまったために引き上げてやることが出来なかったのだ。しかし、同じく同郷の代議士である望月から池田が復活したことを聞きつけて自分の配下に加えようと考えていたのだ。
電報を受け取った有坂総一郎も池田勇人という人物をマークしていたことで史実同様に難病で苦しんでいることは把握していたし、年が明けてから病状が良くなっていることで安心していたのだが、こうして賀屋から大蔵省に引っ張り戻したいという意向を聞くことが出来て肩の荷が下りたように思えたのであった。
「どうしたのかしら?」
「あぁ、いや、この電報を見たら気が抜けたんだよ」
「どれどれ?」
有坂結奈は気が抜けてポカーンとしている夫の持つ電報を覗き込む。
彼女は例によって銀座三越から帰ってきたばかりのようだ。朝からルンルンで三越から届いたカタログを見ながらあーでもないこーでもないと言っていたが、「やっぱり現物見に行こう」と言うと今年3歳になる娘の麗奈を連れて出掛けてしまったのだが、どうやら満足して帰ってきたみたいである。
「へぇ、池田勇人が復活したのね。賀屋さんも抜け目ないわね」
「まぁ、同郷のつながりはこの時代では大きいからね。縁故って言うのは悪いことじゃない。現代では悪の代名詞だけれども……知らん誰かより、身元がはっきりすら優秀な人材の方が引き受ける方も安心出来るわけだから」
「そうですわね。実際、うちも採用の殆どが縁故になっているわけだけれど……偏りすぎじゃない?」
「……」
結奈の指摘に総一郎は黙るほかなかった。陸軍軍人の縁故や東北帝大関係からの採用が有坂コンツェルンでは多かったからだ。安定した人材確保という点と防諜を考えると身元が分かる人間に偏りがちなのだ。
「善処しよう」
「それにしても池田勇人って……吉田学校の人材、私たちが殆ど抑えてしまっているんじゃなくて? 佐藤栄作もそうですけれど、田中角栄も旦那様は狙っているものね。そういえば、角栄さんも今年上京ではなかったかしら?」
結奈の言葉の通りである。
この34年は戦後史をリードする人物が表舞台に揃うことになる年であったのだ。




