1934年時点でのイタリア情勢
皇紀2594年 1月1日 世界情勢
ベニト・ムッソリーニに率いられたイタリア王国はここ数年で明らかに国力に見合わないほどの注目と大国としての尊厳に満ちていた。
一部のイタリア人たちはそれを危険な兆候だと認識し危惧する声を上げていたが、ファシスト党によって議会は全議席を構成していることから政治にその声は反映されることはなかった。
ムッソリーニはこの数年の成果を国の内外に誇らしげに大ローマの復興と表現し誇り高く謳いあげていた。彼の支持者たちもまた大ローマの夢に酔いしれていたのだ。
ダルマティアの領有によってアドリア海は事実上イタリアの内海と化し、モンテネグロさえも旧ユーゴスラヴィア王国からの独立という形で保護国化し、アルバニアに対しても保護国化を強要していたのだ。
また、大日本帝国から譲渡された伊勢型戦艦2隻が回航されたことで日伊同盟の様相すら呈していたことから地中海世界では圧倒的に優位な海軍力を展開していた。無論、大日本帝国海軍の欧州派遣艦隊はタラント港に常駐し、目を光らせていたことで旧ユーゴスラビア地域の騒乱に適宜対処している。これもまたイタリアが地中海世界に君臨する後ろ盾となっていたのだ。
海軍大臣を兼務するムッソリーニは中欧騒乱、バルカン戦役によって海軍力の重要性を改めて認識し、特に航空戦力による地上支援と要地襲撃といった沿岸攻撃ドクトリンを本格的に研究させ始めていたのだ。
これには理由がある。
イタリアはリビアという広大な植民地を有しているが、その実、不毛な砂漠地帯であり、重要な拠点や都市は沿岸に集中していた。そして、エジプトやチュニジアなどイタリア帝国主義が主張する地域もまたリビアと同じく沿岸に主要な都市が集中しているのだ。
艦砲が届く範囲であれば、今まで通りの戦術が通用するが、沿岸砲を設置された要塞相手となると戦艦であっても手強い相手であることは日露戦争や欧州大戦の戦訓として示されている。
だが、そういった要塞は対艦攻撃には有効ではあるが、空からの攻撃には非常に弱いと彼らはバルカン戦役で学んでいたのだ。尤もそれを持ち込んだのは欧州大戦で青島要塞に航空攻撃を仕掛け、また支那動乱において航空機の集中運用を行った大日本帝国であったが。
しかし、この時点でイタリアは航空母艦を1隻も有していなかったのだ。だが、代わりに水上機や飛行艇をイタリアは多く配備していたのである。
「貴国には空母がないが、水上機なら豊富にある。何も艦上機に拘らずとも水上機であればカタパルトを複数装備したタンカーで事足りる」
欧州派遣艦隊司令長官であった永野修身中将はムッソリーニに招聘されて考えを尋ねられた際にそう答えた。
「空母に関しては我々も研究中の部分が多分にあって正解を示すことは出来ない。だが、水上機ならば艦上で運用する必要性は必ずしもない。なにせ海上に下ろせばそこが甲板や飛行場みたいなモノだ。それならば、整備が出来て、兵装を整えることが出来る程度の能力がある平甲板の船があればそれで十分なのだ。貴国は一流の水上機をお持ちなのだからそれを活用すべきであろう」
「確かにそれならば背伸びなどせずに我々の力でなんとかなる。それに水上機は我が国のお家芸だ」
ムッソリーニは永野の言葉に我が意を得たとばかりに大きく頷くと永野を労い、たんまりと食材を持たせて帰らせたが、それは気前の良い彼の心付けでもあった。
永野のアドバイスはイタリア海軍のドクトリンに大きく影響を及ぼすこととなった。翌日、海軍艦政本部の幹部と技官が招集され、将来の空母建造の研究と水上機母艦の戦力化を命じたのである。
「航空母艦は4年以内の戦力化、水上機母艦は年内に試験艦を就役、2年以内に戦力化せよ」
イタリアの艦船建造能力は既に限界に達している中での命令であったことから海軍側は流石に止めに入ったがムッソリーニは首を縦に振らなかった。
「手頃な大きさの民間船や解体中のダンテ・アリギエーリを活用すれば良い。私は建造しろとは言っていない。戦力化せよと言ったのだ。海軍が運用するのに適切なものを仕上げるのだ」
造船所が手一杯で解体待ち状態で放置されているダンテ・アリギエーリを活用することは海軍側にとって想定外だった。だが、兵装や装甲が既に撤去されているとはいえ、ダンテ・アリギエーリは戦艦であったこともあり十分な大きさを有してる。
また、短船首楼構造であり、中部甲板から後部甲板にかけては上部構造物を撤去すれば平甲板であり改装は非常に容易であると技官たちは脳内で青写真を引けた。
「ダンテ・アリギエーリならば好都合であります、統領」
「よろしい、ならば取り掛かるが良い」
こうして史実に存在しないゲテモノが大ローマの夢によって生み出されたのであった。




