1934年時点でのドイツ情勢
皇紀2594年 1月1日 世界情勢
欧州ドイツはナチ党が政権与党になり、帝国議会が炎上して共産党が弾圧されたまで史実と同じであるが、そのナチ党は史実に比べると基盤が弱くなっていたこともあり、連立与党や野党の顔色次第でいつでも内閣崩壊の瀬戸際にあった。
首相であるアドルフ・ヒトラーは独裁権を握ろうと考えてはいたが、国会議長でありプロイセン州内相であるヘルマン・ゲーリングによって出鼻を挫かれていたのである。ゲーリングは帝政復古派の筆頭格として存在感を発揮、裏取引と周到な根回しによって全権委任法が否決されたのだ。
史実において独裁権の確立の源泉であった全権委任法が否決されたことで、ドイツは曲がりなりにも議会制民主主義が維持されることとなったのだ。だが、議会政治が維持された中でも権力闘争は続くこととなる。
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは明確に帝政復古を志向するようになり、議会勢力もナチ党への警戒感から超党派での帝政復古運動へと傾きつつあった。反帝政を明確に打ち出す社会民主党であったが、ナチ党との連携には抵抗感が大きく、独自路線を貫いたこともあり、帝政復古派に大きく寄与することとなったのだ。
しかし、だからと言って政局にかまけているかと言えばそうでもなかった。ゲーリングが航空省設立を強力に主張し、航空機メーカーも彼に同調する形で政財界に周旋して回ったこともあり33年4月にはユンカース社の社屋を庁舎として航空省が設立されることとなった。
ゲーリングは経営危機に陥っていたユンカース社を半国営企業として買収、これを航空省の基幹に据えようと考えた。創業者であるフーゴー・ユンカースはこの提案に反対を唱えていたが、経営陣は経営危機を乗り切るためには国家の支援は不可欠であるとユンカースを説得、半ば主君押込の形でユンカース社は国家買収されることとなったのだ。
ユンカース社の半国営化が3月中に達成されるとゲーリングは社屋の一角にリヒトホーフェン大隊以来の戦友や人脈を呼び込みドイツ航空委員会が設立され、国会決議を経て航空省として改組された。
ゲーリングのスタッフは管理部門に陸軍から引き抜いたアルベルト・ケッセルリンクが充てられた。ケッセルリンクは元上司である国防省ヴェルナー・フォン・ブロンベルクを抱き込み、陸軍航空部門を航空省に移管させることに成功した。
「閣下、航空戦力の重要性を考えますと、最早陸軍附属の組織として運用するのでは航空戦力を十分に機能させることは出来ませぬ。つきましては、我々航空省に陸軍の航空機運用を移管して頂きたいのであります。無論、航空省は陸軍に対して必要な支援を行うことを確約致します」
航空戦力の運用についてブロンベルクはケッセルリンクと同様の結論に至っていたこともあり、二つ返事でそれを了承し、5月には正式に航空省管轄へと改組されたのである。
航空省が組織として成長し始めるとより多くの人材が必要となっていった。航空省は5月末の時点で軍用機部局と民間航空部局の二つで構成されるようになり、航空省次官としてエアハルト・ミルヒがその任に付くことになった。ミルヒはケッセルリンクと協議の上で部門間の競合や重複を無くすために組織改編を進めていくのであった。
33年秋の時点で軍用機部局、民間航空部局、技術開発部局、生産部局、訓練・人事部局、中央司令部局、補給・兵站部局が設立されるとミルヒは航空相であるゲーリングに代わって全権を握り、航空行政を一手に引き受け、代わってケッセルリンクは空軍参謀総長として軍務全般を引き受けることとなった。
ドイツ空軍の誕生の瞬間であった。
ミルヒは半国営企業となったユンカース社に投資を行い、技術の積極的導入や設備更新を優先的に行った。”機体性能を追求するあまり量産性や実用性を軽視する”傾向が強いハインケル社や実績が不十分であったバイエルン航空機製造とは違い、規模も十分であり実績もあるユンカース社を航空省直轄で自由に運営するためのものであった。
また、反ナチ的だったユンカースの発言力の低下を表向きは狙ったものであったが、ゲーリングとミルヒからしてみれば有為な技術者を失うわけにはいかないための保護的意味合いがあった。これによって国営化が進んだことでユンカースは株主であって一人の技師という立場になったのである。
ゲーリングやミルヒにとっては機体性能がいくら優れていても量産性や実用性が低い機体よりも堅実で量産的な機体の方が望ましかったこともあり実用的航空機を生産開発していたユンカース社の方が彼らにとって都合が良かったのである。
また、ドイツ海軍の飛行艇開発という事業もユンカース社に大きく貢献することとなったのだ。海軍が資金供与してくれているということで航空省の出費が抑えられるという予算的な都合もあった。
航空戦力を手放したドイツ陸軍であったが、彼らが航空戦力を譲渡したことで得たものがいくつかあった。航空戦力と機動装甲戦力の二つを自前で揃える必要性がなくなったことで、彼らは予算上の制約がある程度軽減することになったのだ。
しかし、彼らにとって大きな問題を同時に抱えていたのである。
ラッパロ条約によってソ連領内における秘密軍事技術開発が行われていたが、中欧動乱以後、ドイツはソ連との関係が悪化したことで不可能になっていた。これによって、戦車開発は遅延を来していたのである。
欧州大戦において投入された新兵器である戦車の運用についてドイツ陸軍は大いに研究を進めていたが保有・開発禁止によって立ち遅れていた。そんな中、ハインツ・グーデリアンなど自動車化・装甲化の推進者たちはこの状況を憂慮していた。
本来ならば、数年掛けて実用的な10~15トンの主力戦車や、20トン級支援戦車を開発して装甲師団を整備していくというものであったが、その基礎研究が終わったかどうかという状態でソ連との関係悪化によってラッパロ条約が有名無実化してしまったのだ。
ソ連領内のカザンで行われていた研究開発は、ソ連側から研究資料を置いて帰国するように促されたことで中断されることとなった。これによって従来の計画が大幅に狂ってしまったのだ。だが、研究が比較的進んでいたノイバウファールツォイクの資料が後に大いに役立つこととなったのはあえてここでは語らない。
こうして基礎研究が役に立たない状態となったドイツ陸軍は発想を転換することとなったのだ。
「どうせ間に合わないのだ。基礎研究で出来たシャーシに野砲を載せ自走させることで戦車代用や移動砲台にすれば良い。今必要なのは、戦車そのものではなく、急速展開出来る火砲だ」
かくしてI号自走重歩兵砲が33年冬に誕生したのであった。制式化されたばかりの33年型15cm重歩兵砲を開発中止となったI号戦車のシャーシに載せてしまったのだ。
短い射程と比べて重量がかさむ33年型15cm重歩兵砲を馬匹運用するよりも使い道のなくなった試製戦車のシャーシに載せて運用する方が効率的であるという判断であった。このI号自走重歩兵砲は東部国境に展開する各師団に緊急配備されることとなり、量産が急がれたのである。
かくして、ドイツは史実に似ていながらも微妙に違う史実以上に崩れやすい砂上の楼閣として34年を迎えることとなったのだ。




