1934年時点での極東情勢
皇紀2594年 1月1日 世界情勢
大日本帝国は満州の獲得、沿海州を中心とする正統ロシア帝国を勢力下に置き、大英帝国及びドイツ共和国、イタリア王国との関係が良好であることから対外貿易は右肩上がりとなり巨額の貿易黒字となっていた。
また、支那からアヘンの対価に巻き上げている銀による蓄財はそのまま外貨準備高へと転換され、ドイツ共和国やアメリカ合衆国からの精密機械やプラント購入代金へと大きく寄与していたのである。また、一部の銀は再び支那に放出され、銅やタングステン、亜鉛、鉛といった大日本帝国が必要とする鉱物資源の調達に用いられ、密貿易による鉱物資源確保が行われていた。
これらは青幇など支那地下社会が大きく関係し、彼らの協力によって敵対関係にある南京国民政府の領域からの鉱物資源を獲得するという結果に結びついていたのだ。
特にアメリカ合衆国大統領にフランクリン・デラノ・ルーズベルトが就任してからアメリカ政府の圧力で南京国民政府が通貨改革を行ったことで、現銀が市中から回収されたことによる信用不安が支那人社会に大きくのしかかったことが青幇と提携しているA機関の活動に大きく寄与したのである。
アヘン対価として受け取った銀で鉱物資源を買い集め、同時にアヘンの密売も行うことで流出した銀が再びA機関を通じて日本側に回収されるという闇貿易が確立されたことは、文字通りタダで物資を手に入れているようなモノだった。
無論このカラクリに気付く南京国民政府ではあるが、手を打とうにも青幇は南京国民政府に大きく財政的貢献しているため取り締まることはそのまま財政基盤に打撃を受けることを意味しているため、青幇が取り扱っていない部分を摘発することで取り締まりをしているというアリバイ作りをするのが精一杯であった。
そもそも、日本産(満州産)アヘンの常習者が南京国民政府には相当数存在していた。彼らにとってアヘンは嗜好品でありタバコなどと同じく日常に用いるものだった。故に取り締まりは形ばかりで、彼らには追及の手は及ばず、また、彼ら自身が私腹を肥やすために逆に売り捌いていた側面すらあった。
こういった事情から支那から銀が日本側に流れていたが、同じく支那から銀を巻き上げていたアメリカ合衆国にとっては面白い事態ではなかった。
支那の銀を巻き上げて、代わりにドルと連動する銀元を流通させることで支那市場をコントロールしようと画策していたアメリカ合衆国にとって、アヘンの流通と銀の流出は自分たちのメイクマネーに不利益であったのだ。故にルーズベルトは蒋介石に圧力を掛け、銀元への刷新と銀両の回収を急がせたのである。
その後のロンドンにおける列強間の銀価格安定化を目的とした大蔵大臣・中央銀行総裁会議が開かれるが、日英米の溝は埋まらず事実上決裂してしまう。ロンドン大蔵大臣・中央銀行総裁会議の決裂はそのまま支那大陸を草刈り場にすることになり、同時に南京国民政府が支配する地域はハイパーインフレを発生させてしまったのである。
事態の進行は南京や上海から欧州系銀行の撤退を促すこととなった。撤退すると同時に現銀を香港及び長崎へと移送し、現銀回収を狙う南京国民政府から欧州系銀行は財産保全を図ったのであった。これによって、上海の金融センターとしての地位は低下し、香港と長崎・神戸の地位向上に繋がったのだ。
欧州系銀行資本の避難先に長崎や神戸が選ばれたのには理由があった。
大日本帝国政府は英東洋艦隊の寄港地であり、前進拠点として長崎を誘致していた。これは三菱長崎造船所や川南工業香焼島造船所があることで、艦船の補修が可能であるという利点もあったが、香港上海銀行の支店が存在していたことも大きい。また、神戸も同様に香港上海銀行の支店があり、関西方面の重要港湾であったことから欧州系企業にとって商取引決済に都合が良かったのだ。
また、長崎や神戸が選ばれたのは大陸航路の起点であり、大阪商船などが香港・上海・天津・秦皇島・大連に航路を開いていたこともある。これによって、必要があれば長崎や神戸から出向けば2~3日で上海に出向くことが可能だったのだ。
そして、長崎が金融センターとしての地位を築く土壌がもう一つあった。
ウラジオストクに首都を置く正統ロシア帝国である。ロシア系資本が長崎を中継点としたことで、巨額の資本が集積していたのである。
亡命ロシア人たちが日本へ再亡命、正統ロシア帝国へ移住する際に横浜が玄関口となっていたが、横浜は正統ロシア帝国への玄関としては不便であった。そこで、彼らは長崎を好んで選んだのである。海路によってウラジオストク、香港、上海、大連、帝都東京と繋がる長崎は好都合であったのだ。また、神戸にもロシア人は集まり、川西航空機と提携するシコルスキー・エアクラフト社を頼る者も多く居たのだ。
こうしてヒトモノカネが長崎と神戸に集積していったのである。




