風雲渦巻く箱根会議<6>
皇紀2593年 12月29日 神奈川県 箱根
ニッケルこそ不足気味ではあるが、現在の大日本帝国は各種鉱物資源は需要を満たすのには十分な量が確保されている。
鉄は満州・朝鮮北部やマレーからの鉄鉱石移入で賄えており、石炭も同様に満州・朝鮮北部・国内炭から十分な量が確保出来ている。タングステンやマグネサイトは朝鮮北部の開発によって採掘量は日々増加しており、一部は輸出にすら回されている。これによって製鉄で困ることは現状はないと判断されている。
アルミニウム精錬に必須のボーキサイトはパラオやポナペ、ヤップなどで三井鉱山が採掘を進めていたこともあり、徐々にであるが成果を上げつつある。また、マレーや蘭印からの移入もあり、アルミニウム精錬は33年の時点で年3万トンという実績である。また、満州や朝鮮北部での明礬石採掘による海運に頼らないアルミニウム資源確保も進められている。
亜鉛は沿海州の開発によって産出されつつあり、これによって合金の生産に大きく貢献し始めていた。また、大英帝国との良好な関係でカナダの輸入が増えていることで不足することはなかった。錫はマレーと沿海州からの移入が進んでいることでこれもまた合金生産の一翼を異なっている。
問題は銅である。チリから大量に買い付けているが、やはり軍需だけでなく民需も逼迫する傾向にある。特に合金素材として重宝するだけに国内銅鉱山の再開発も高コストであろうが進められていた。特に住友財閥の力の源泉である別子銅山などは巨額の資金を投下して探鉱と再開発が進められている。
無論、銅の供給が止まった場合を考え、銅の含有量を減らしつつも同等の性能や役割を持つ代替合金の開発も進められている。だが、いずれ形になるにせよ、今はまだ時間が掛かるだけに銅とニッケルの入手は最優先で進められているのであった。
これらはいずれも有坂コンツェルンが各分野に強い企業へ投資や開発を促す方向で動いていたことで史実よりも数年早く開発が進められている効果によるが、インフラの強化、生産力の拡大に伴って財閥を中心に各業界が自主開発資源の確保を目指して動き出したことが大きかった。
だが、いくら企業が開発を進めようとしても先立つ資金がなくては進められないため、日露戦争の公債発行の立役者である高橋是清が総理として閣僚として仲介する形で取りなし、大英帝国系資本が資金を提供してくれたのである。また、ロシア系資本もまた投資先として有望であると沿海州開発に多くの資金を提供していたこともあって開発は順調に進んでいたのである。
だが、それでもどうにもならないのが銅であった。
銅鉱山が手に入らない、銅鉱石が手に入らないなら、既存の銅資源を入手するしかなかった。しかし、一つの切り札が大日本帝国には存在しているのであった。
支那における銅幣である。
支那という国家は信用通貨というモノが普及した20世紀前半であっても、銀貨や銅貨といった現物が最大の信用を有し特に銀を尊重しているのだ。
有坂総一郎はA機関を通じて銀やタングステンを入手し、マネーローンダリングすることで大日本帝国の国富に還元させていた。この課程で多くのアヘンが支那各地に流通し、また、多くの銀と銀貨(銀両)がそれと引き換えられていったのだ。
蒋介石率いる南京国民政府が通貨改革を始めたことで銀両の回収が困難になってきたこともあり、代わりに銅貨である銅幣を回収することとしたのだ。
上海を支配する青幇の頭目の一人である張嘯林はA機関に大量の銅幣を納入してアヘンを大量に仕入れて売り捌き始めた。無論この動きは南京国民政府が察知するところであったが、張が蒋と関係を結んでいること、南京国民政府の官憲もまた腐敗していることでアヘンやいくらかの現金を握らせることで何ら妨害を受けることはなかった。
この1年間で10万トン程度の銅幣が秘密裏に上海から大運河を経由して天津へ流れた。天津で鋳潰された銅幣はそのままインゴット化されて山海関を抜けて奉天へ運ばれた。ここで、廃電線スクラップとラベルを貼り替えられた銅は大連から新居浜へ運ばれ、ここで住友金属の工場で製品へと転換されていったのである。
史実の36年に国内生産された1年分の銅をアヘンで買い付けたというわけである。なお、45年4月の大和特攻の際の大和1隻に積み込まれた対空砲弾に使われた合金である黄銅は550トンであるが、それに使われる銅は390トン、亜鉛が160トンだ。主砲弾に使われる銅は全1170発で70トンとなる。
大艦隊、機甲戦力をこれから整備するという大日本帝国には銅がいくらあっても足りないことがこれだけでこれだけでわかるというモノだ。
「他の鉱物はなんとかなるが、銅とニッケルだけはなんとしても手に入れる必要がある。そのためには大蔵省や財界各位には一層協力を求めたいところだと理解して頂きたい」
岸信介は鉄の配分の話題が終わった後、一通り各種鉱物資源の需給について報告してから
そう締めくくった。その後の一同の表情は皆一様に渋いものであった。




