風雲渦巻く箱根会議<3>
皇紀2593年 12月29日 神奈川県 箱根
史実において大日本帝国は燃料不足を打開するために悪戦苦闘している。それは周知の事実であるから多くを語る必要はないだろう。
その中で、IGファルベン社という存在が大きく影響していたことは日独関係を考察したことがあるものであれば必ず行き当たる事柄だ。
泥沼化する支那事変はそのまま日米関係を大きく損ない、石油禁輸、経済封鎖という流れに行き着く。この時の外交に瑕疵があるのか、それともアメリカ合衆国の陰謀・策謀と捉えるかは、各人によって異なるであろう。
だが、誰にとっても一つだけ共通の真実がある。そう、石油が足りないと言うことだ。窮地に陥る大日本帝国は盟邦ドイツ第三帝国を頼ることになる。この時に打開策の最右翼となっていたのがIGファルベン社であった。
大日本帝国はナチス政権を経由して接触を図るが、IGファルベン社はそれに対して冷淡な姿勢を取り人造石油の量産各計画は事実上頓挫してしまう。いくつかの交渉の結果、いくらかの技術供与を得ることとなったが、時既に遅し、核心技術の供与もなく、生産工場の拡充も出来ず、人造石油の量産は戦局に寄与することなく終戦を迎えることとなった。
大日本帝国において実用化の域に達したのは九州三池炭鉱に隣接する三井大牟田工場におけるフィッシャー・トロプシュ法による人造石油量産であった。
しかし、ここにも問題があり、三池炭は硫黄分が多く本質的には人造石油に用いるには適していないのであった。そこで、三池財閥は北海道炭に目をつけた。こうして北海道人造石油が設立され、滝川にプラントが建設されることとなったのだ。
だが、時勢味方せず、資材不足などで北海道人造石油における生産は遅々として進まなかった。結局、大牟田での年産1万トンに比して滝川では年産7千トン台(見込み)であった。
最大の問題は工業水準の低さから来る部品精度の低さによる事故多発、触媒の不足など製造工程における不備がそこかしこに山積だったことである。
しかし、彼らは不断の努力によってこれを乗り切ろうとしていた。200日で活性が失われるコバルト触媒は三井大牟田でも大きく問題となっており入手の困難さから打開策を講じる必要性に迫られていた。
京都帝国大学の喜多源逸教授の研究室はFT法が発表されてから触媒研究を行い続けていた。当時、彼が教えていた学生に児玉信次郎がいたが、喜多は児玉に触媒研究を卒業論文のテーマとするように言い渡し、酸化マグネシウムと二酸化トリウムをコバルトに添加する助触媒に用いると優れた効率を示すことを発見した。
その後、喜多と児玉を中心とする研究室には数十名のスタッフが集い、この研究を続けていたが、そこに三井財閥は接触し共同研究を図ることになったのであった。彼らは入手が容易な鉄系触媒を開発しようと画策、昭和19年8月に滝川において開発されたばかりの鉄触媒を用いて本格的な製造が始まったのであった。
この結果は上々であった。コバルト系触媒を用いずとも、同様の効率を示すどころか、優位性を示す結果をもたらしたのであった。だが、この時、マリアナ諸島は陥落し、アメリカ軍はその牙をフィリピンと日本本土へ向けていた。その後も急ピッチで鉄触媒へとプラントを転換して整備していたが、終戦に間に合わず、その真価を発揮することはなかったのである。
この事実は有坂総一郎の中で痛恨事として記憶されていた。また、同じく転生した存在である東條英機中将にとっても同様であり、何より、三井の人造石油は海軍主導のプロジェクトであったことから散々陸軍主導の同様のプロジェクトを邪魔された経緯から苦々しい記憶であった。
「我が陸軍は人造石油の量産を推し進めるべきだと考えている。我らは満州から多くの重油を得ることに成功している。その重油は海軍や鉄道省にがぶ飲みさせておくなど勿体ないことだと思う。ドイツのIGファルベン社と接触を図ってベルギウス法による人造石油精製技術を早期確立させるべきだ」
東條は居並ぶ官僚たちにそう告げると持ち込んでいた資料を配らせた。
そこにあったのはIGファルベン社が見積もっていた史実のライセンス料とプラント価格であった。




