鮎川義介とダットサンと無免許運転
皇紀2593年 12月26日 神奈川県 横浜
鮎川義介率いる日本産業は衆議院議員久原房之助が経営していた久原鉱業を源流とする。義弟である久原が政界進出に伴って経営権を譲り受けると久原鉱業を日本産業と改称し、経営破綻状態から一気に業績を改善させていった。
先進的な電気炉による製鋼を行っていた安来製鋼所の経営権を握ると自身が経営していた戸畑鋳物と経営統合させつつ、旧久原財閥の経営を再建していった鮎川であるが、次なる事業は自動車産業であった。
31年の時点でダット自動車製造は戸畑鋳物の経営監督下に置かれていたが、33年3月に石川島自動車製作所がダット自動車製造を合併して自動車工業と改組されるとダット自動車製造を支援していた鮎川はダットサンの製造権を無償で譲り受け12月にダットサンの製造のために自動車製造を設立するに至った。しかし、自動車工業と自動車製造、似た社名が並立していることは産業界、軍部にとっても混同されやすく都合が悪いことから設立とともに改名されたのであった。
ここに日産自動車製造が成立したのである。
日産自動車製造はその本拠を横浜に置き、アメリカ流の大規模大量生産体制を目指した。これは中島飛行機がフォード式のそれを習った様に量産効果によるスケールメリットを狙っていたのである。
中島飛行機は商用トラックおよび軍用トラックをメインに量産を行っていたため、乗用車に関しては開発能力が欠如していたことから市場の牽引力は国内生産能力を高めていたフォード社とGM社が主軸であった。
そこに真っ正面から殴り込みを掛ける立場になった鮎川率いる日産自動車製造は従来ダット自動車製造が製造していたダットサンの商標と製造を受け継ぐことで当面の主力商品とすることとした。これはダット自動車製造の工場とその生産設備を譲受した関係によるものだが、鮎川には一定の勝算があった。
「750ccまでは無免許で運転出来る」
大日本帝国における法体系では無免許で運転出来る自動車およびオート三輪に寛容的であったのだ。産業界とユーザーの運動の結果、広げられた枠が自動車にも適用されていたのである。
ダットサン11型は登場当初は排気量制限に引っかかったが、33年に枠が広がったこともあって無免許による運転が可能な車種となったのである。無論、枠拡大の運動に関わっていた鮎川であり、このカラクリを最大限活かすつもりであったのだ。
「大排気量であることは確かに利益が多いかも知れない。だが、今我々が必要としているのは燃費が悪くて運転に条件がある自動車ではないのだ。誰でもいつでも運転出来る自動車なのだ」
これは明らかに外車への挑戦であった。
シボレー・コンフェデレイトは3000ccを越え、フォードモデル40に至っては3600ccである。こういった大排気量車両はやはり日本という国土、インフラ水準では持て余す部分が大きかった。史実でもダットサンは年産最大8000台に及ぶ生産数に達するなど旺盛な需要があったことからその選択は間違っていなかったとうかがえる。
鮎川はオート三輪の需要から街中でチョイ乗りする、もしくは商用車としての需要は大きいと考えていた。どのみちいくら安価な価格設定をしたとしても一般世帯に普及するには手頃とは言えない。平均価格1500円に対して30年の平均年収が750~800円であることから、手が届かないとまで言わずとも相当に高い買い物であるのは間違いない。
そうなると主軸はやはり対企業と言うことになる。
これが企業相手となれば、相当に敷居が下がる。商用車の普及がなれば相手先に出向くことも容易になり、商談のスピードが格段にアップする。備え付けの自転車に乗っていくのが自動車に置き換わるのだからその時間短縮は計り知れない。
そして軍部だ。
軍部はいま兵営に簡易的な自動車教習所を設置して一般の兵士に至るまで自動車講習を行って、無免許であっても自動車が運転出来るように訓練を行っている。これはトラックの普及とともに自動車運転技能保持者が軍部にとって重要視されているからである。
そうなれば安価で数を揃えやすく、道路事情に左右されないダットサンの出番だ。
「まずは大手企業と軍部、そして官庁に売り込みをかける」
鮎川は方針を立てると当年度150台生産に過ぎなかったダットサンの生産台数を34年度は4倍の600台、35年度はさらに倍の1200台、37年度には年産1万台を指示したのである。
「大排気量の乗用車は外車に任せておけば良い。今は普及と生産および設計技術の蓄積が肝要。勝負は昭和15年以後になってからだ。」




