鉄道省VS京成電鉄
皇紀2593年 12月15日 帝都東京 上野
関東大震災以後、帝都に集中する人口を近郊へ分散させることを目的に不動産業者にニュータウン建設が命じられた。そして関東大手私鉄にはニュータウンとの接続鉄道の建設が命じられ、既存路線を改良または延伸することで都心部との接続強化が図られていた。
千葉方面を地盤に持つ京成電鉄は国策に従い、また自社の野望・宿願であった都心への接続をこの機に達せんと猛然と建設を開始したのである。
建設のペースこそ史実と同じく、26年中に押上-津田沼-成田まで開業させているが、この時点で特筆すべきは全線10両対応ホームであり、青砥-高砂は複々線として上野への延伸に対応させていたのだ。
31年に日暮里-青砥の開業を経て、33年12月10日に遂に上野恩賜公園の直下に上野公園駅が完成し、この日宿願であった都心への直通が叶ったのである。
帝都の北の玄関口である上野と直通したことによって千葉方面への時間距離はぐっと縮まった。鉄道省は陸海軍との関係から電化が制限されていることもあって蒸気機関車による運転であるが、私鉄はその様な気兼ねも必要ないことから全線電車運転が可能であり、高頻度高加速運転を実現していたのだ。
これは関西私鉄でも同様であり、京阪間、阪神間においても電車高頻度運転が実現していたのである。
京成電鉄は上野開業に伴い特急を設定し、その停車駅を上野公園、青砥、津田沼、勝田台、佐倉、成田の6駅とし、それ以外の駅を通過させることで参詣鉄道という本来の性格とともに開発中のニュータウンである勝田台への入植を促すそれを示していた。
また、千葉方面へ対しても特急を設定し、その停車駅を上野公園、津田沼、千葉中央の3駅に限定することで都市間特急という性格を強めたそれを運行し始めたのである。この都市間特急は並行する鉄道省の総武本線に比べて多少運行距離が長いが到達時分は圧倒的に優位であった。
「弾丸列車何するモノぞ! あっという間の上野千葉」
明らかに鉄道省への挑発とも言える広告を打ち、千葉方面の乗客を掻っ攫おうとする京成電鉄の目論見は大当たりし、総武本線は閑古鳥が鳴くという有様であった。だが、流石にこの状況を黙ってみている鉄道省ではなかった。
「東京駅・銀座へは省線で! 銀座で悠々お買い物、お得な往復切符でスーイスイ♪」
鉄道省はこれを逆手にとって翌11日にはラジオ放送で京成電鉄へ果たし状を送りつけたのであった。
閑古鳥が鳴いているのであれば多少運賃を値引きしたところで痛くも痒くもない。空気輸送より値引きして千葉方面の乗客を奪い取った方が利口だと反撃を始めたのである。しかも、乗り換え無しと空いていることをスーイスイ♪と言う部分に引っかけている。
史実では錦糸町からトンネルで東京駅へ直結しているが、この世界では秋葉原-浅草橋の間からカーブすることで東京駅に直結している。関東大震災によって倒壊焼失したことで建設出来たのであった。ただし、単線カーブでもあることからあくまで暫定的な短絡線扱いであり、地下トンネル建設を計画されている。
ともあれ、鉄道省と京成本線は千葉方面輸送で真っ向勝負に出ることになったのである。千葉方面における壮絶なバトルは兎も角、上野-成田方面に関しては京成電鉄の独壇場であり、成田線や総武本線は一方的に不利であったが、こればかりは仕方なくローカル線に転落したことを鉄道省は甘受せざるを得なかった。
だが、鉄道省と京成電鉄のバトルはこれが第一幕に過ぎなかったのだ。




