ユダヤ系科学者たちの行き場はなかった
皇紀2593年 10月17日 大英帝国 ロンドン
史実においてアルベルト・アインシュタインはこの日アメリカに亡命しているが、この世界では亡命先に大英帝国を選んでいた。
彼の足跡は史実とそれほどの違いはないが、ユダヤ系ハンガリー人であるレオ・シラードとの親交もあってナチ党政権が成立し迫害を恐れたユダヤ系科学者の亡命や避難先としてシラードがロンドンに設立した学術支援評議会に参加し、立ち上げに関わっていたのである。
元々、アメリカからドイツへ帰国する途上であったが、ナチ党政権樹立という事態によってアインシュタインはロンドンにとどまっており、シラードらと合流するとAACの設立やフランスやスイスなどの学者たちに協力を依頼するために動き回っていたのである。
AACの設立が軌道に乗るとそのままロンドンに居座る形で亡命を行ったのであった。
しかし、この世界ではエンリコ・フェルミが既にこの世にはなく、核分裂などに関する研究の道が事実上閉ざされていたこともあり、原爆開発は大きく遅れるか、成立するトリガーそのものを失っていた。これによってアインシュタインは量子力学や特殊相対性理論などの分野の研究に進んでいくこととなった。シラードもまた生物学へ傾倒することになった。フェルミの死が歴史に大きく影響を与え始めたことがこの段階で転生者には感じ取れる様になってきたと言えるだろう。
AACの活動によってドイツからユダヤ系学者が亡命をしはじめたこと自体は史実と同じ様相を呈していたが、史実と比してナチ党政権の権力基盤が弱く、帝政復古派は逆にユダヤ系への寛容な態度を示していることからカイザーヴィルヘルム研究所などドイツでも権威のある研究施設からは亡命者がそれほど多く出ていないというのも歴史の流れが異なっていることを示していた。
しかし、アインシュタインの有するベルリン郊外の別邸は家宅捜索の上で研究資料などがドイツ捜査当局に接収され、国家機密漏洩の罪状で国家反逆罪による指名手配となったのは史実とそれほど違いのない結果であったと言えるだろう。
また、ドイツからの圧力を感じたベルギー政府はアインシュタインのベルギー入国を認めないと発表した。ベルギー王室と関係の深かったアインシュタインはこのことに深い衝撃を受け、ドイツの背後に大英帝国の黙認があったことを感じ取るとアメリカへの亡命を考えたが、ユダヤ系学者を同じく冷遇するソヴィエト連邦と関係を深めつつあるアメリカに不信感を抱いていたこともあり、アインシュタインはロンドンから動けなかったのであった。




