インド分裂
皇紀2593年 7月14日 英領インド帝国
先年の塩の行進以来、英領インド帝国においてインド人たちの反英闘争は暴力、非暴力問わずに激しさを増していた。
反英闘争の指導者であるマハトマ・ガンジーは塩の行進直後に逮捕拘禁されたが、遂にインド総督府から刑務所へ収監、懲役刑に処することは正式に命じられた。
大英帝国本国やインド総督府にとってはガンジーの所業は自分たちの統治を揺るがす許しがたいものであったが、だからと言って処刑することは現地インド人の反感を大きくするだけであることを知っているだけに見せしめとしての懲役刑が精一杯であった。
とは言っても、反逆で罪に問おうにも、彼のやっていること自体はいくらかの法を犯す程度であり処刑するにまで至らないことは明白であり、法学的にも投獄しても1~2年程度の収監が関の山という状態であったのだ。
こればっかりはガンジーに軍配が上がった。自身は軽度の法令違反にとどめつつも大英帝国のインド支配に楔を打ち込むことに成功していたのであるから粘り勝ちというものだろう。
しかし、何事もそう都合良く動くとは限らないのであった。
塩の行進で確かにインド人は自らの意思で密造塩を手に入れ、糸車を回して綿製品を作ることに成功したが、彼らに出来たのは所詮そこまでであったのだ。
大英帝国本土から運ばれてくる綿製品は反英闘争によって拒否されたが、代わりに市場の空白を埋めたのは自前の綿製品では無く、日本製の綿製品であった。また、市場に出回る塩の流通量を規制したことで塩の不足が目立つようになり、インド人同士の分断が進んでいったのだ。
インドの独立を志向するための反英闘争が逆にインド人を苦しめることになり、反英闘争に傾く独立派への怨嗟の声が都市部を中心に蔓延してきたのだ。都市部住民は貨幣経済に組み込まれていることもあり、塩を手に入れるための経済的負担が重くのしかかってきたのである。
また、衣料も必要であるが、反英闘争で不買運動をしてしまったことで大英帝国本国からの輸入製品が塩と同じく流通量が減ったことで衣食住の衣食に大きく影響が出てきたのであった。大英帝国は流通管理で縛り上げる方針で内部分裂を誘い、日本企業は空白の生まれた市場につけ込んで安価で綿製品を売り捌いたのである。
これは反英闘争の根幹を揺るがすこととなり、また、指導者であるガンジーの影響力を削ぐ形となったのだ。また、ガンジーの側近たちもガンジーが投獄され、一切の面会を認められなくなったことでその方針について分裂していくことになった。
「ガンジーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」
スバス・チャンドラ・ボースは以前から度々口にしていたガンジー批判を明確にし、反英闘争に対する方向性の転換をインド国民会議において主張し始めた。
ジャワハルラール・ネルーもまたガンジー主導の不暴力不服従路線では難しいと考え、ソヴィエト連邦との連携を考え、コミンテルンとの接触を図っていたのである。
チャンドラ・ボースとネルーの両者はソ連を頼みにインド独立へとつなげようと考えていたが、その独立後の方向性において道を違えていたこともあり両者の連携は出来ていなかったのだ。チャンドラ・ボースはヒンディーとムスリムを内包した大インドを志向し、ネルーはムスリムを排除したヒンディーインドを志向していたのである。
彼らの方針の違いはそのまま国民会議派を分裂へと追い込むことになったのだ。そして、その影響は多くの亡命インド人がコミュニティを作る大日本帝国にも波及することになった。史実では中村屋のボースとして知られるラース・ビハーリー・ボースやA・M・ナイルなどはインドに残るチャンドラ・ボースやネルーらともまた違う路線を進んでいたのだ。彼らは日本において大アジア主義者と連携し、インドの独立を企んでいたのである。
無論この動きは駐日大英帝国大使館にマークされ、その動向は監視され、大日本帝国も大英帝国との関係から英大使館の行動を見逃す方針をとっていたのである。また、何か問題を起こして逮捕した場合は即時引き渡すとの口約束も交わされていた。
しかし、彼らに転機が訪れたのは陸軍大臣に荒木貞夫中将が就任したことであった。
荒木が亡命インド人への尾行や監視をやめるように英大使館に申し入れたのである。これには日英双方の外務省から非公式であるが大きな反発を招いたのである。大日本帝国外務省からすれば自分たちの縄張りを荒らされた上に外交的な密約を反故にされ、大英帝国外務省からすれば反逆者たちを匿い利用されかねないという疑念が発生したからである。
だが、これは外交的に表に出ること無く処理されたのであった。
「無論、我が帝国においてインド人が無法なる振る舞いをしたのであれば、大英帝国に引き渡す。それは当たり前のことでは無いか。犯罪者を逮捕することは我が国の国法であるし、その犯罪者が所属するのが大英帝国なのだから国外追放した場合引き受けるのは大英帝国だ。それに異論があるわけではない」
荒木はそう主張し大英帝国の立場を否定しなかった。だが、続けて言う。
「だが、我が国の法を犯しているわけでもない滞在者や我が国の民となった者を理由無く監視や尾行されるのは我が帝国にとって愉快なことではない。そちらの事情はわかるが、場合によっては内政干渉と言うことになる。それを我が帝国政府が黙認すれば、どうなるか? それは貴国がよくおわかりではないか?」
荒木の言葉は英大使にとって耳が痛いモノだった。内政干渉する理由と条件が整えば口を出し手も足も出すのが列強の正当な権利だ。そして、それでこそ列強を名乗れ、世界を好きに出来る資格があるのだ。それを撥ね除けることが出来なければ、幕末維新のように列強につけ込まれるだけなのだ。
荒木による指摘に異を唱えることが出来なかった英大使はすごすごと手を引くしかなかったのだ。これによって日本国内での亡命インド人コミュニティは自由な行動が可能となり、大手を振って組織を立ち上げることが出来るようになったのだ。
こうして、インドはそれぞれ異なった指導者に導かれて分裂していくことになったのである。




