不穏なる東方の英雄
皇紀2593年 7月1日 東欧情勢
世界はぐっと近くなった。
だが、それは人類にとって良いことばかりであるのかと言えばそうでもない。欧州大戦の頃からこの世界は平面では無く、立体に、三次元へと変化していった。
長距離砲弾が彼方の虚空から飛んでくる、飛行機や飛行船による空中哨戒と爆撃、これらは明らかに戦争の概念を書き換えていった。
しかし、それは同時に戦争だけで無く移動という概念をも書き換え、経済にも大きく影響を与えるようになった。それは、プロイセンが鉄道を周辺国へ侵攻する際に活用したそれを繰り返していると言えるだろう。
そして、再びこの世界は新たなステージへと進む。交通が革命的に進化を遂げ、飛行艇によって航空路整備が進んだ。これは今まで大洋を船舶で越えて十数日から数ヶ月掛けて往来していたそれをほんの数日で結ぶことになった。
太平洋横断飛行は1週間で、大西洋横断飛行はたった2日である。時間距離の短縮はそれだけ国家間の障壁を取り除くことになったのだ。
だが、そんな中でも世界に壁を作り交流を拒む国が存在した。北の凍った大地を支配するソヴィエト連邦はその最たる例だ。彼らは欧州諸国との関係を断ち切り、コメコン諸国およびアメリカ合衆国との関係を強めていた。それは彼らなりの生存圏の確保であったのは間違いない。
コメコン諸国に連なるポーランドやチェコスロヴァキアは資本主義世界に属しながらも次第にソ連による影響で企業の国有化や農業の集団化が進み、ソ連経済を支えるために存在する宿主とも言える存在に変容しつつあった。
特にポーランドは旧ドイツ領である西プロイセン、旧オーストリア領であるガリツィアを除けば工業地帯は存在せず、典型的な農業国であり、その消費財の多くをソ連とチェコスロヴァキアからの輸入によって賄っていた。
これといって輸出できるものを産しないポーランドは比較的富裕な西部と南部と違いワルシャワを含む中部や東部は貧しく貧富の差が中欧動乱以後は日増しに開きつつあり、国内分断の危機が水面下では広がりつつあったのだ。
特に西部の大部分を占める西プロイセンはドイツ復帰を願い、ドイツ国内の帝政復古派と連絡を取り合っていることをポーランド政府は把握し、反乱分子として厳しき取り締まりを行っていた。また、同様に南部ガリツィアはガリツィア・ロドメリア王国の再興を掲げて独立を願う運動が同時に発生していたのだ。
いずれも裏で糸を引いているのは大日本帝国であるのは明白であった。だが、状況証拠でそうだと疑えるだけで、実際には分離主張する団体への武器弾薬などは一切供給されておらず、物的証拠は見つからないためポーランド政府は表だって大日本帝国へ反発出来ないのであった。
時折散発的に発生するガリツィアでの暴動などでフェドロフM1916小銃が用いられ、鎮圧時に押収されるということは散見された。これによってソ連に対する疑念を深めてはいたのだが、表だってソ連と事を構えたくないポーランド政府は禁制品の密輸が横行しているという名目で東部国境に検問を配置することでフェドロフM1916小銃の流入を阻止しようとしていたのだった。
だが、実はこれの出所はハンガリーからルーマニアを経由したもので、ソ連領内からガリツィアへ流入していたものではなかったのである。
現地在留ドイツ系住民やワルシャワ中央政府へ非協力的なポーランド人によって作られたガリツィア・ロドメリア救国白色戦線はガリツィア地域内ではなく、その活動領域を北部国境周辺、特にリトアニアと国境紛争を抱えるヴィリニュスなどを中心に展開し、リトアニア系住民と共闘してワルシャワ中央政府へ反旗を翻していたのだ。
ガリツィアのポーランド人たちは民族こそ同じであってもワルシャワの連中はよそ者、もしくは自分たちの財産を食い潰す厄介者という認識を持っていたのだ。そのため、本来は敵であるはずのリトアニアと手を結ぶことにそれほど抵抗を感じていなかったのだ。というよりも、ガリツィアのポーランド人よりも西ウクライナ人たちがポーランドへの復讐に燃えたと言うべきかも知れない。
結果として北部国境地帯はテロや反乱、暴動が頻発するようになりポーランド政府はその鎮圧に手を焼くことになったのだ。こうして31年冬から33年夏に至る1年半で内部から引き裂かれていたのであった。
無論、その間、ポーランド政府が無策であったわけではないが、政府の求心力は低下する一方であり、議会も混乱を極めていたこともあって有効な手を打つことが出来ずにいたのは間違いない。これら混迷するポーランドを指導するユゼフ・ピウスツキは求心力の回復を狙い、予防戦争を志向するようになった。
ピウスツキはフランスと水面下で対独予防戦争を提案し、ポーランド軍と呼応してフランス軍にラインラントへ侵攻するように要求したのである。これはアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、帝国議会が炎上した直後の出来事であった。
この提案にフランス側は驚きを隠すことは出来なかった。
確かに対独予防戦争のメリットはフランスにとって大きなものであったし、ラインラントを期限付きであっても自国勢力下に置くことが出来るならばそれは対米債務償還にも寄与することは間違いなく、自国の鉱工業生産に大きく寄与すると算盤を弾くことが出来た。
だが、この誘いに乗ると言うことは欧州大戦における連合国の正義を否定することに他ならず、不戦条約こそ成立しなかったが、その精神を否定することにすらなるのだ。それは自由平等博愛をその三色旗に示すフランスという国家にとって自らが愛する三色旗に泥を塗ることでしか無かった。
しかし、その提案は余りにも魅力的であった。
故にフランス側は肯定も否定もしない曖昧な態度に終始し、ピウスツキはそれを都合良く解釈し、フランスが参戦せずともドイツの行動を阻害してくれると判断したのである。
そして……事態は動く……。




