飛行艇時代<2>
皇紀2593年 7月1日 世界飛行艇事情
ドイツがドルニエ社を中心にドイツ海軍や大英帝国を巻き込んで飛行艇開発を加速させた欧州と同様にアメリカでも飛行艇開発は加速していた。
アメリカのマーチン社は史実においてシコルスキー・エアクラフト社のS-42を超える飛行艇を開発し、パンアメリカン航空の大洋航路に貢献していた。
この世界ではシコルスキー・エアクラフト社はその資産を日本に移し、川西航空機の一部門として航空機開発に取り組んでいたこともあり、S-42相当の飛行艇は登場が少し早まり、志式飛行艇として川西航空機の主力製品となっていた。
30年末から日本国内路線や台湾航路などに投入されその真価を発揮してきた志式飛行艇に刺激を受けたマーチン社は片道5000kmを飛行可能かつ豪華客船にも劣らない機内設備を整えた新型飛行艇を計画したのである。
巡航速度は志式飛行艇と遜色ない250km台であるが、志式飛行艇にくらべて一回り大きいこともあって機内に余裕があり、サンフランシスコ-ハワイを16時間台でひとっ飛びすることが可能であった。
志式飛行艇でもサンフランシスコ-ハワイを飛行可能であるが、その際は乗員を減らし増槽を装備して飛ぶ必要があり、その場合、満席で無ければ赤字水準での運行になるため基本的には推奨されない運用であった。
だが、パンナムはそれも承知で川西航空機と契約を結び5機を導入し、31年春にサンフランシスコ-ハワイ-ミッドウェー-ウェーキ-グアム-マニラ-香港の航路を開設したのであった。この航路開設によって太平洋は1週間ほどで結ばれるようになった。その効果は大きく、軍人や官僚はこの航路を利用して米本土からフィリピンに赴任するようになった。また、香港在住のイギリス人は本国との最短連絡となるためインド洋航路ではなくこれを使って行き来するようになったのだ。
とは言っても、その料金は一等船室料金と同等かそれ以上のものであり、余程急ぎの用事で無ければ従来通りインド洋航路を利用するのが一般的であった。
パンナムが米企業であるのに日本企業の製品を利用していることが気に入らなかったマーチン社は自社製品がより優れていることを証明すべくパシフィックライン用に相応しい内装を設えた1等船室にも劣らないそれに食堂やラウンジまで備えた空のホテルを目指したのであった。
運行時間は従来と同じであるが、明らかにサービスが向上し、尚且つ増槽をつけなくてもサンフランシスコ-ハワイ間を飛べるというそれはパンナムにとってメリットしか無かった。客層が固定化していることで値上げしたとしても問題は見受けられない以上、マーチン社の申し出を拒む理由は無かった。
そして元々無理して飛ばしている志式飛行艇を他航路に転用出来れば中米航路などの開設に役立つことは明白なだけにマーチン社の新型飛行艇に掛ける期待は大きかった。
マーチン社はM-130と命名したこの飛行艇には4発の空冷式発動機を搭載することにし、選ばれたのはプラット&ホイットニー社のR-1830であった。R-1830は30年代初めで入手可能な発動機では尤も信頼性が高い発動機の一つであり、比較的早期から14気筒化された空冷式発動機だった。
当初こそ800馬力台であったが、マーチン社が搭載を考えていたのは1200馬力の仕様であった。この仕様はまだP&W社がリリースしたばかりの新仕様であったが、マーチン社は迷わずこれを選定し、装備させることにしたのだ。
熟成されていない発動機でもあり、当初はトラブルが続いていたがP&W社も一緒になって問題の洗い出しや部材の変更などを繰り返して33年3月に初飛行にこぎ着けたM-130はそのお披露目をサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ上空で行うとその足でロサンゼルスへと飛んだ。
サンフランシスコ-ロサンゼルスで習熟飛行を繰り返してから6月にハワイまでの往復飛行を行い長距離飛行の経験を積んでから6月末に試験飛行と回航を兼ねてフィリピンまで飛んだ。7月に週1便の割合で運行を開始することになった。このときにはまだ全6機の製造が間に合っていなかったため、予備機ゼロの状態であった。そのため入念に整備を行い、緊急時は洋上で着水して修理が出来るように防水部品や発動機整備用の部品を整備士とともに積み込んでの飛行となった。
また、パンナムはマニラ-上海、上海-香港の航路を持つ中華南方航空公司を設立し、これによって支那大陸への足がかりとしたのである。同時に志式飛行艇をマニラ-香港に毎日2往復させるとともに、マニラ-ダバオに毎日1往復、マニラ-シンガポールに週3往復させることにしたのである。
これはルーズベルト政権のアジアへの干渉を意図した命令航路の開設であったのだ。




