飛行艇時代<1>
皇紀2593年 7月1日 世界飛行艇事情
時代は飛行艇による長距離渡洋に突入しつつあった。史実よりも早くS-42相当である志式飛行艇が川西航空機から発表されると俄に脚光を浴びたのである。
「極東の日本人がなかなかやりよるわ。どれ、我々もひとつ渡洋飛行艇を作ってみようではないか」
ドイツのドルニエ社、アメリカのマーチン社がそれぞれ新型機の開発に着手し、ドルニエ社はDoJに続くシリーズとして開発した失敗作のDoXをなかったことにして史実で言うところのDo18の開発に取り組んだ。また、同様にマーチン社もM-130相当の飛行艇開発を始めていたのだ。
これらの原型機は32年末頃には出揃っていたが、肝心の発動機開発や調達が思いのほか苦戦したことで初飛行は33年にずれ込んでいたのである。だが、それでも史実に比べると1年以上も早期の開発となったのだ。
特にDoJを使いハンブルク-リスボン-リオデジャネイロへの航路開拓をしていたルフトハンザ社は北米航路に進出を希望し、途中寄港地無しで一気に米東海岸へ飛べる機体を欲していた。これに応えるには片道6500kmを飛べる航続距離が求められたが、流石のドルニエ社もそれには無理があると答え、半分の3500kmを飛べる航続距離で手を打つこととなった。開発コンセプトが決まれば後はそれに合わせた機体設計を行うことになる。
だが、意外なことにこれに興味を示したのはドイツ海軍であった。
ドイツ海軍はドルニエ社に補助金を出すことで計画に秘密裏に参画。機体設計について口を出すことになった。余計な横やりが入ったことでルフトハンザ社は余り良い顔をしなかったが、開発費が圧縮出来ることで妥協することにした。
ドイツ海軍は長距離偵察が可能な機体を欲していたこともあり、水上で運用するものは海軍の管轄であるとの認識で陸軍に口を出させなかった。この当時、航空機に関しては陸軍が管轄していたこと、航空軍備の制限があったことから海軍の身勝手な行動であったが咎めるものは居なかった。
これ幸いとドイツ海軍は襲撃艦と運用をともにする哨戒機として、あわよくば飛行艇母艦の建造につなげたい考えていたのである。
この飛行艇開発で最大の難関は発動機であった。本来、史実では35年に初飛行する予定のものが前倒しで開発されているのだから発動機開発が追いつくわけが無かった。開発主務であったユンカース社も長距離飛行に適した大馬力発動機など研究開発を始めたばかりで寝耳に水であったのだ。
だが、発動機や航空機開発で誇り高く自負心のあるユンカース社がそんなことでめげるわけが無く、海軍に対し、発動機開発に関係する資材の優先提供と開発費負担を要求したのである。
「理想的な開発環境を整えてくれるならいくらでもやってやんよ」
要はそういうことだった。研究開発にいろいろと制限がある中でやろうとするから出来ないのであって、環境さえ整えば望むものを作り上げてやるという出来て当たり前という考え方であった。
海軍はそれに対し、英独海軍協定を盾に民間用航空機の開発への制限を解除して欲しいと要望を出したのである。ドイツ政府も流石にそれは無理だと渋っていたが、海軍統帥部長官にして海軍大将であるエーリヒ・レーダーは政府の面々に啖呵を切ることでこれに応対したのであった。
「貴殿らは一体何を恐れている? イギリスは自国の経済危機で手一杯だ。まして東方問題について我々のフリーハンドを認めておるではないか。発動機の一つや二つくらいは見逃すこと間違いない」
政局に明け暮れまともに国家の方向性を示すことも出来ないドイツ政府の面々はレーダーのその言葉に反論を示すことすら出来ず黙りこくってしまった。
これによってレーダーは邪魔されること無くロンドンに飛び、大英帝国政府と直接交渉を持つことになった。外交官ですらないレーダーが外交交渉を行ってくるという事態に大英帝国は些か不思議がったが、外交特使としてのそれであったことから交渉に臨むことになった。
「我々は再軍備のためではなく、民間用の低燃費で耐久度の高い発動機を欲している。だが、それにはヴェルサイユ条約以来の各種制約が邪魔をしている。無論、我々が……より正確に言えばルフトハンザ社が欲している発動機は貴国やアメリカですら存在していないのだ……ないものは造るしかない……だからこそ、彼らは私を頼ってきたのだ。そして、私はこうしてロンドンにまで出向いて頭を下げるほか無いのだ」
レーダーはそう言って大英帝国の面々に頭を下げると同時に切り出す。
「もし、我々が求める発動機が開発出来れば、きっと貴国にとっても大いに役立つに違いない。その際は私の力の及ぶ限りユンカース社やドルニエ社など関係各所に力添えすることを約束する」
大英帝国にとって中欧動乱以後の情勢ではドイツとの協調関係は非常に重要であり、ましてポーランドやチェコスロヴァキアはソ連と接近し始めているという状況を考えれば、ドイツとの関係を緊密に保つ必要があった。
だが、欧州大戦において英独仏は西部戦線で激しい航空戦を繰り広げた仲である。そう簡単に首を縦に振ることは出来ない。だが、実際問題として自国のブリストル社などが開発している発動機に比べて魅力的な発動機であることからある程度の黙認はしても良いと考えてもいたのだ。
「もし、承認出来ないのであれば、黙認頂きたい……東方問題に関しては我らが責任を持ってこれ以上の拡大させないように面倒を見ます故」
大英帝国側にとってのメリットは十分に満たされたこともあって要約交渉は纏まり、ブリストル社やマーリン社、ロールスロイス社など発動機メーカーがユンカース社における開発レポートなどをフリーパスで確認出来ることを条件に黙認することで決した。
無論、この英独発動機協定は秘密協定として書面すら存在しない口約束であったが、英企業には研究資料を提供することを書面で誓約履行することで発効された。
これによって32年に急ピッチで開発が進んでいったのだ。特にロールスロイス社が研究資料から自社で開発を進めて部材の実証をしたことで実用化が早まり、33年年始には初飛行にこぎ着けたのであった。
ユンカース社はJumo205型発動機を手にし、ロールスロイス社は自動車用発動機へとその開発研究を活かすことになり、ドイツ国家は発動機開発を自由に行えることとなり、大英帝国は東方問題をドイツに押しつけることに成功したのであった。
こうしてDo18は33年5月に正式に引き渡され、慣熟飛行を行い大西洋横断航路へと就航したのであった。




