米帝鉄道戦争
皇紀2593年 7月1日 アメリカ合衆国交通情勢
アメリカを代表する鉄道と言えばニューヨーク・セントラル鉄道とペンシルヴァニア鉄道を挙げることが出来るだろう。なぜなら、彼らにまつわる神話、英雄譚、伝説の類いはそれこそ星の数とまでは言わなくても語るに困ることはないからだ。
大陸横断鉄道という一種の浪漫あふれるそれもあるが、それはあくまで西部開拓の、そして太平洋航路との連結というものがメインであり、やはりNYCとPRRに比べれば華に欠けるだろう。
今回はそんなお話。
史実と同じくNYCとPRRはニューヨーク-シカゴにおいてNYCは20世紀特急を、PRRは特急ペンシルヴァニア・スペシャルをそれぞれ1902年に運行開始し、1000kmを超える超長距離輸送において熾烈な戦いを繰り広げていたのだ。
元々NYCは特急エンパイア・ステート、PRRは特急ペンシルヴァニアを19世紀末から運用していた。これらは表定速度70km、概ね20時間程度の運行時間であった。
しかし、二つの会社にはニューヨーク-シカゴを特性が違う路線で運用していたのである。NYCは平坦だが遠回りの1535kmという運転距離をオルバニー-バッファロー経由で結び、PRRは山越えだが短距離の1451kmという運転距離をワシントンDC-ピッツバーグ経由で結んでいた。
NYCは対抗上高速性能を求めた機関車を投入し、最高速度180km、表定速度は98km、運転速度130kmという速度性能と客車の装備でPRRを出し抜こうと画策していた。
先に仕掛けたのはPRRであった。ワシントンDCに新駅を開業し集客能力で圧倒することと路線網の拡充でアメリカどころか世界最大規模の鉄道会社へと駆け上がったのである。そして満を持して02年に投入した特急ペンシルヴァニア・スペシャルは従来の特急ペンシルヴァニアとサービス面で差別化を図り、また14年にはボールドウィン社が設計したK4形蒸気機関車の投入。世界最高のパシフィックと称されるK4形によって1000トン級列車を120km走行可能としたのだ。
時期を前後してNYCはPRRに負ける危機に瀕していると焦りを感じていた。時期を同じくし、特急エンパイア・ステートに代わるフラッグシップがNYCには必要となっていたのである。02年に全室個室寝台車、プルマン式寝台車、流線型客車という革新的サービスを導入すると同時により運転時間を削減するべく停車駅の削減した特別な列車として20世紀特急を投入したのである。
五大湖工業地帯でも大都市でありシカゴと並んで中心的存在であったクリーブランドをJR東海が新幹線のぞみ投入時に行った「名古屋飛ばし」「本社飛ばし」宜しく通過としてしまったのである。到達時分の削減効果や個室寝台といったサービスが例え別途特別料金を支払ったとしてもこの20世紀特急の衝撃は大きく、魅力的であったのだ。
そして10年後の12年。PRRは従来の特急ペンシルヴァニアと特急ペンシルヴァニア・スペシャルが誤乗車を招きやすいと言うことからブロードウェイ特急と名を改めることとなったのである。そして、NYCとPRR、アルコ社とボールドウィン社の長い戦いの本番が始まったのである。
ボールドウィン社がK4形という世界最高のパシフィックという名誉を手に入れたのがライバル企業であるアルコ社(アメリカン・ロコモティブ社)は面白くなかった。アルコ社はNYCに機関車を納入し、ボールドウィン社はPRRへ機関車を納入するという立場から同じようにライバルとして立ちはだかる存在だったのだ。
こうして鉄道会社同士のバトルは機関車メーカー同士のバトルへと駒を進めてしまう。
アルコ社は27年に世界最高のハドソンを目指してJ1形をNYCへと納入、これはすぐさま20世紀特急牽引に回されその性能を披露することになるのである。K4形が1000トン列車を120kmで運行するなら、J1形は流線形カバーをつけて最高速度150kmをたたき出すというものであった。そしてJ1形の登場は世界的な流線形機関車の流行の先駆けとなったのである。
空力学的に流線形カバーをつけることで空気抵抗が減ると言うことは知られていたが、実際には何ら影響を与えず、その後の流行の衰退とともにカバーを外されてしまうことになるが、この流麗なボディーは見る者を魅了し、新時代を感じさせる斬新なものであった。
しかし、そんな派手なものが目に付かないはずが無く、ボールドウィン社は社運を賭けてアルコ社に喧嘩を売ることにしたのである。
「彼らに出来て我らに出来ないはずがない」
機関車の設計開発に一家言あるボールドウィン社が黙っているわけが無かったのだ。アルコ社のJ1形の量産が進む中、彼らは「世界最高」という称号を再び奪還すべくJ1形と同じハドソン形式のF6形の開発に取り組んでいたのである。
この間もNYCとPRRの熾烈な戦いは続いていた。だが、時代は緩やかな不景気に突入しつつあり、刻一刻と大恐慌という運命の日へと向かっていた。
29年7月、遂にアメリカ発の世界恐慌が始まった。株価の暴落が始まると市場関係者は必死に暴落を食い止めようとするが、嘲笑うかのように売り注文は続き、さらなる暴落の引き金を引くことになる。
そして30年、ミルウォーキー鉄道向けにボールドウィン社はF6形を納入。明け渡した栄誉を奪還すべく挑戦するのであった。特急ミルウォーキーの牽引状態で最高時速161km、表定速度123kmを記録し、文字通り栄光を奪還するのであった。




