交通新時代<8>
皇紀2593年 7月1日 大日本帝国交通情勢
日本という異世界には他の世界に存在しない奇妙な進化を遂げるものが多く存在する。
その一つがオート三輪である。
三輪自動車という存在は欧米でも自然発生的に発明され、開発が進んだ。だが、あくまで大衆車の代用というもので橋渡し的な存在であった。しかし、日本ではそれがどういうわけか独自進化を遂げることになる。
車輪配置は前輪に1つ、後輪に2つのタイヤを持つものがほとんどである。確かに欧州大戦のさなか、1917年に大阪で自転車式貨物車が登場したときは前2輪・後1輪だった。だが、安定性や積載力を欠くため、ほどなく前1輪・後2輪のレイアウトに移行することになる。これがいわゆるオート三輪という謎の物体の原初の形であった。
これら原初のオート三輪は中小零細メーカーを中心に、多くのメーカーが製造しており、生産体制は町工場レベルのアッセンブリー生産であった。
しかし、実用上の要請から改良が進み、本格的なトラックとしての強度を持つプレスフレームへの移行、大排気量化や2気筒エンジン化し、30年代中頃には我々の知るオート三輪とほぼ同じものが出来上がっていたのだ。だが、史実と異なり、この世界では20年代後半にはオート三輪はこの水準に達していた。
発動機製造などがイギリス製エンジンの流れを汲んだ空冷サイドバルブ単気筒・2気筒の実用に足るエンジンを国内生産するようになっていたことが大きな理由である。エンジンの国産化が出来るようになればガラパゴス化の前提条件は揃ってしまう。
あとは需要と実用上の都合によって進化は勝手に進んでしまうのだ。
国内流通の劇的な変化は国内市場の劇的な拡大に繋がり、通信販売や訪問販売が一般化してしまったことで戸口輸送の需要が大きく成長し、それに伴うトラックの不足、道路事情の改善への要求が日増しに高まるが、自動車生産能力と道路建設計画を超えてしまった需要を捌くためにはいろいろな方法が考えつかれた。
大手の運輸会社は中古自動車を買い集め、また乗用車を改造しトラック化することで輸送力を確保し、それが出来ない零細事業者はオートバイとリヤカーで、場合によっては量産化が進み安価になった自転車とリヤカーという組み合わせもあった。
しかし、そこに商機を見いだしたのはオート三輪を造っている町工場であった。エンジンと部品さえあればあり合わせであっても造れてしまうオート三輪はまさにうってつけだったのだ。
そして町工場によるオート三輪生産数の増加はそのままエンジンを供給する発動機製造、東洋工業、日本内燃機に商機を与えることになる。
「これだけの需要があるなら我々が直に生産すれば良いではないか」
三社の勘は正しく、量産規格化されたオート三輪が売り出されるとその需要を満たすがごとく注文が殺到することになった。それは貨物用だけで無く、乗合用としての需要も出てきて三社はカルテルを結ぶことで基本構造を統一し、さらに価格を引き下げつつ旺盛な需要や要望に合わせていくつかの仕様を提示したのである。
これに対して、当初は上限350ccであったが、ことにオート三輪の積載能力に見合った動力性能を求めるメーカー、ユーザーが関係各省へ働きかけ、30年の改正で無免許上限は500ccへ変更され、その後更に自動車業界も働きかけを強め、33年には750ccまでの無免許運転が認められた。
貨物輸送用、乗合用と需要が増していったが、意外と伸び率が高かったのは農村部であった。
農村部は地主が農業会社や農事組合へと改組し会社組織化するところが増えてきていたこともあって、農産物の出荷や農地の移動にオート三輪の様に無免許で運転可能で輸送力がある存在はまさにうってつけだったのだ。
また、集落の代表者が通信販売で発注した品物を鉄道省線の駅に受け取りに行ったり、病人を病院へ連れて行くために使うなど多用途に使えたのだ。トラックや乗用車と違って、運転技術さえあれば誰でも運転出来るため農村では女性であっても運転する例は多くあったのだ。
かゆいところに手が届くオート三輪というものが急速に地方において普及するとそれはそれで想定外の効果を生み出すことになったのである。朝一番に収穫した農産物が市街地の商店に並ぶようになり、同様に漁村から新鮮な海産物が市場に流れるようになったのだ。
そうなると品質によって値が上下することになったのだ。これはそのまま農村部や漁村部において収入を分けることになり、農業会社を経営するようになった元地主やその社員となった元小作人たちはより高値で農産品を買わせるために品質管理の考え方が根付くようになったのだ。
鈴木商店からアンモニア事業を引き継いでいた有坂コンツェルンはこの機を逃すこと無く、農村へ肥料の販売を推し進めることにしたのだ。
「良い品質の農作物を作るには良い土が必須。そのためには良い肥料と良い水が何よりも大事」
従来の糞尿を用いた肥料からアンモニアを使った人工肥料に切り替えた効果はすぐには出なかったが、確実にその効果を生み出すことになるのであった。例えば、寄生虫や赤痢の減少という面は無視出来ないのだ。
だが、その裏にはアンモニア事業の拡大によって火薬生産量を飛躍的に伸ばすことが可能であることが見え隠れしていた。
陸軍は農村から徴兵によって入営した者たちに除隊後の帰農時には人工肥料による農作物の生産を促すように仕向けていた。また、隊内で作る野菜なども人工肥料を用いたものであり、その効果を脳裏に刻み込ませていた。
また、満州に派遣されている関東軍も兵営に隣接した畑で人工肥料を用いた野菜の栽培を行い原住民に普及させるように仕向けていたのである。
オート三輪の普及は意外なところで大日本帝国の国力に寄与していたのだ。




