交通新時代<6>
皇紀2593年 7月1日 大日本帝国交通情勢
帝国を構成するのは内地や満州、台湾、朝鮮だけではない。内南洋ももまた重要な地域である。内南洋とはマリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島を中核とする太平洋に点在する欧州大戦によって獲得した委任統治領である。
欧州大戦後、列強はドイツ帝国とオスマン=トルコ帝国の領土を分割し戦勝国で分配することを決めたが、その際に建前上は植民地として搾取することが無いようにと住民の福祉を推進し、将来の自治・独立に向けたサポートをすることが目的として始められた制度であった。
連合国を構成する日英仏伊はアメリカが参戦する前に戦後の勢力圏について秘密協定を結ぶことで分配を取り決め、これを基礎として戦後枠組みを作ろうと考えていたが、アメリカのウィルソン大統領がこれに激しく反発し、民族自決の原則という自国にとって都合が良く、尚且つ国際的に耳障りの良い理屈を捏ねて会議をリードしたことで連合国に亀裂が生じていた。
仮に日英仏伊の秘密協定を基礎とする世界分割計画が採択された場合、アメリカの取り分は著しく少なくなり、旧大陸主導の従来型手法が続くことはアメリカ市民の支持を得られないことがウィルソンにとっては認めがたいものであった。
これで会議は紛糾し、お互いに譲り合うことが無く決裂の様相を呈してきた際、南アフリカのとある将軍が委任統治制度を提案してきたのであった。大英帝国は建前上は兎も角、運用方法で従来型植民地化が可能であると判断するとこの提案を即座に賛意を示し、大英帝国との秘密協定を結んでいる大日本帝国もまたこれに乗っかる形となり、領土分割は委任統治方式で行われることとなったのだ。
これによって大日本帝国は南洋諸島を獲得し、C方式という実質的に自国領土として扱って良いという枠組みで受任することとなった。こうして大日本帝国は欧州大戦の対価として内南洋を得て、この地域に進出することとなったのである。
統治機構として南洋庁がパラオに設置され、国策会社である南洋興発が乗り込み殖産興業に取り組むことになった。南洋興発は半官半民のデベロッパーであり「海の満鉄」とも称され、北の満鉄・南の南興として大日本帝国の海外権益を代表する企業であった。
南洋興発が設立される前に乗り込んだ開発会社があったが、欧州大戦後の不景気で経営難となりすぐに撤退することとなった。この際に、飢饉が内南洋で発生するという問題も抱えていたことから、日本内地と台湾で製糖業に携わっていた松江春次が移民の救済と南洋での製糖業の将来性を主張し、失業者の救済と南洋開発を目的として、設立資金の7割を政府系の東洋拓殖から出資し、松江ら発起人、そして技術者が内地・台湾の製糖会社から招致されて南洋興発が1922年に設立されたのである。
このとき松江は先に進出して撤退していた企業からその権益を引き継ぐとともにサイパンなどの島に産業用鉄道として精糖鉄道が敷かれ、また最新の精糖機を導入することで雇用と産業の育成に力を注ぐこととなるのであった。撤退企業の旧社員や現地雇用を含めて数千人規模の雇用がこれで生まれたのである。
経営開始から3年、苦難の時期を乗り越えて25年に黒字化することに成功し9000トンの精糖に成功する。その後、30年に至ると製糖量10万トン水準にまで達していた。これは南洋庁が手厚い保護を行ったこと、南洋興発の砂糖が内地で大量に消費されたことで軌道に乗ったことを意味していた。
南洋興発が波に乗った背景には南洋庁という国家機関による保護政策があったことだけで無く、余剰人口を抱えた沖縄県や奄美大島などからの移民が押し寄せたことで労働人口が急増したことによって規模拡大が容易になったことが大きい。
島内の交通網の整備も進み、内地から旧式化と改軌によってお役御免になった明治期に輸入された蒸気機関車が大量に送り込まれたことで輸送能力が格段に上がったことや生活水準の向上による経済規模の拡大もまた南洋興発の経営を大きく助けていたのである。
だが、そうなると内地と内南洋との間の交通が大きく影響を受けるようになったのであった。従来の船舶による往来では時間が掛かりすぎること、港湾設備の整備が追いつかなくなってきたことがクローズアップされるようになったのだ。
亡命航空技術者であるイーゴリ・シコルスキーが川西航空機と提携して志式飛行艇を開発した30年、ここから潮目が少し変わったのである。
港湾建設などは重機械の投入が必要であり、内地のそれが優先されていることもあり内南洋の港湾整備がされるのは早くても35年以後だと南洋庁は考えていた。いくら南洋庁でも回せる予算は限られていることからズブズブの関係である南洋興発の要請と言ってもそう簡単には首を縦に振ることは出来なかった。
特にパラオにおいてボーキサイト採掘が始まってからは南洋庁にとっては軌道に乗った南洋興発の事業展開やマリアナの開発は自分たちでやって欲しいというのが本音であった。ボーキサイト採掘に伴うパラオやペリリューの開発は帝国中央政府から優先的に行うことが求められ、また、三井財閥も本腰を入れて開発を始めていたこともあり、港湾施設建設はどうしてもここを優先するほか無かったのだ。
そうなると従来型の艀輸送に頼ることとなり、効率が悪いままであり南洋興発は頭を抱えてしまったのだ。製糖事業はこの上なく順調に進んでいるのに、港湾施設の処理能力が追いつかない。島の倉庫には処理しきれない砂糖が山のように積み上がる。内地からはもっと運び込むことを求められるが、その希望に添うことが出来ない。
そこに川西航空機で量産が始まった志式飛行艇が目に付いたのである。史実で言うところのS-42に相当するこの飛行艇は乗員40名近くを乗せることが出来ることもあり、桟橋か砂浜があればどこでも運用出来、また海岸に整備用の格納庫を造れば台風などでも対処可能であるのだ。
南洋興発の幹部たちは川西航空機に乗り込んでこの志式飛行艇の貨物機仕様を5機発注することにしたのだ。概ね運搬可能な貨物量は3トン程度ではあるが定期便として運行し、また郵便事業も請け負うこと、内地から家電製品や付加価値の高い品を復路で運び込むことで輸送費の圧縮を考えていたのだ。
川西航空機で商談をまとめた彼らはその足で神戸から夜行急行で帝都に移動し、海軍省を訪れたのである。飛行艇が手に入ってもそれを内地のどこに着水させるか、それが問題であったのだ。利便性を考えれば、横浜や神戸が望ましいが、史実以上にひっきりなしに船舶の往来がある東京湾や大阪湾を用いるのは憚られたのである。
そこで海軍が交渉先として選ばれたのである。
海軍は霞ヶ浦に面した土浦に霞ヶ浦航空隊を運用していたこともあって、設備の面でいくらかの献金や使用料を払うことで水上空港代用に出来るのでは無いかと考えたのである。また、霞ヶ浦は湖であることから海に比べて波浪の影響が少ないこともメリットであると考えられた。
海軍省は整備用の格納庫の新設をしなければ大型飛行艇の運用には適さないというものだった。だが、逆に言えば、それさえクリア出来れば使用に問題は無いと言うことを示していたのである。彼らの想定内の回答を得たことで即座に格納庫新設に対する資金提供を申し出て彼らは握手を交わした。
仕事を達成したことで意気揚々とサイパンへと引き上げていった彼らだが、海軍省の大臣執務室から見送る人物の表情を知らないでいたのは幸いであろう。




