交通新時代<5>
皇紀2593年 7月1日 大日本帝国交通情勢
1928年の張作霖謀殺に始まる満州事変で張軍閥を満州から追放し、西は万里の長城、北は大興安嶺を境界として大日本帝国は満州を手中に収めることに成功した。
それから5年。
南満州鉄道の理事であった島安次郎は有坂総一郎との約束である史実のパシナ形蒸気機関車とあじあ号客車を凌駕するそれの開発に道筋をつけると満鉄を辞職し、大阪の汽車製造の社長に就任し、弾丸列車構想と列島改造論を支えるべく奮闘していた。
島とともに満鉄の高速化を推し進め、遼河油田の開発に大きく関与した山本条太郎は満鉄総裁職を内田康哉に譲り、内田は山本の残した事業を継続するとともに日英のパイプとして満州経営に辣腕を振るうことになった。
内田は遼河油田の経営が軌道に乗ると最寄りの港湾都市である営口にアメリカから輸入した石油精製プラントを設置、その操業規模を一気に拡大させることで撫順炭田とともに満鉄の経営の柱へと成長させたのであった。
遼河油田は重質油が主であることから重油と軽油をメインに精油し、軽油は内地向けに発送し、重油は自社の機関車向けに供給することで石炭消費を抑え製鉄用や人造石油用へと転用させることに成功していたのである。
特に石炭液化技術の導入による人造石油製造の道筋がつけられたことは内田にとって大きな功績となったのだ。同じく満鉄理事であった十河信二は内田とともに関東軍に働きかけることで陸軍のドイツとのパイプを活かすことでドイツ系技術の導入に意欲を示した結果であったと言える。
31年には長春を新京と改名し、満州総督府が開設され、従来の関東庁からの行政から本格的に満州を統治し自国影響圏化へと塗り替えようという政策が始まったが、これには内田や十河の暗躍があったこともまた否定は出来ない。
事変直後に建設した満鉄長春支社は31年元日に新京と改称されたその日に本社となり、満鉄は南満州地区の鉄道会社というそれから満州全域を代表する鉄道会社へと進化を遂げたのであった。
31年3月のダイヤ改正で大連-新京間の急行列車が「はと」と命名され、満鉄初の愛称付き列車となった。続く7月のダイヤ改正で釜山-新京(京城・奉天経由)の急行列車が「ひかり」と命名され、同様に同じルートでの夜行便に「のぞみ」と命名し、内地、朝鮮、満州の接続が強化されていった。優等列車の格付けが変わるとともに急行列車の増発が行われ、ヒトモノカネの動きはより活発となると満州への投資は急速に高まっていったのである。
満州経済が活況を呈するようになると万里の長城を越えて支那商人の往来が活発となり、新京-北京(山海関経由)やハルピン-北京(承徳経由)といった急行列車の需要が急増していくことになった。
特に関東軍や甘粕正彦らのA機関、陸軍のフロント企業である昭和通商が満州産のアヘンを支那商人や水運業ギルドを発祥とする秘密結社青幇に横流しして資金洗浄させる際に承徳経由の夜行急行列車が用いられることが多かった。
これは山海関経由の場合、秦皇島や天津と言った欧州列強の勢力圏を通過するため密輸がバレると国際問題となりかねないため、欧米列強の手が伸びていない熱河省を経由させる方が安全であるからだ。無論、これには北京北洋政府の腐敗官僚たちがアヘンの密輸密売に加担していることもあって、多くの銀両が満州へと持ち出されていたのである。
そして、北京に流れたアヘンは北支を通過するとそのまま中原へと拡散し、最終的には中支に行き着く。最終消費地は南京国民政府であったのだ。青幇の頭目格である杜月笙は蒋介石と接近しその地位を築いていたが、彼が伸張したのも実際には満州産のアヘンの中支における流通を一手に引き受けていたことによる。同じく青幇の頭目格である張嘯林も南京国民政府において高い地位を得ていたが、杜ほどは蒋との距離が近くなく、機会があれば日本に与して地位を固めようと画策していた。
彼らは組織力を用いて敵対勢力である北京北洋政府の支配する中原や北支に根を張り、競って満州産アヘンを手に入れようとしていた。その対価はやはり銀両であり、そして鉱物資源であった。南京国民政府や武漢赤化政府の支配領域で産出される鉱物資源は大運河や新黄河で密輸され、北京近郊に集積され、堂々と山海関経由で満州へ持ち出されるという流れになっていた。
だが、これらの流れも33年に入ると様相が変わることになる。
アメリカからの圧力もあり、廃両改元が行われたことで市中に出回る銀両が回収されたことで市中の資金流通が減ったこと、通貨価値の下落によってアヘンが流通しづらくなったのだ。通貨価値が下がったことで相対的にアヘンの価値が上がり、アヘンを手に入れることが出来なくなったこと、アヘン買い付けに必要な密輸鉱物資源が必要数を満たせなくなったのである。
支那全土から得ていた銀両は鋳つぶされてインゴットとなり大日本帝国の外貨準備や国際決済に回され、打ち出の小槌や埋蔵金として機能していたが、それもここまでとなったのである。




