交通新時代<4>
皇紀2593年 7月1日 大日本帝国交通情勢
道路事情はいくらかは改善されたとは言えど、全国土の9割近くは未舗装道路である中で陸上輸送のシェア争いはやはり無理があり、各社とも無駄に体力を削っていくばかりであった。
京浜工業地帯や阪神工業地帯、名古屋港地区、北九州工業地帯では道路事情の改善もあって輸送量は増えてはいたが、そもそもが、近距離輸送を狙ったものではない郵船運輸や商船通運にとっては全く利益にならないダンピング競争は重荷でしかなかった。
また日本初の定期トラック路線を開設した大和運輸はダンピングによる近距離貨物の増加に困惑しつつもトラックの量産と確保で需要に応えていた。これには旧式の中古トラックが流通し始めたことで、新たな顧客層の開拓が出来たことによるメリットであった。
国際通運や郵船運輸、商船通運が大型貨物や大量輸送といった企業⇔企業に対して、大和運輸は企業⇔個人や個人⇔個人と取り扱いの幅を広めていたことの違いであった。
1927年に鉄道省が開始した宅扱が日本における宅配便の元祖形態であるが、これに大和運輸は集荷配送業者として参画していたこともあって、戸口から戸口への小口輸送で大きくシェアを伸ばしていたのである。史実よりも遙かに経済が活発化している大日本帝国ではいわゆる通信販売が盛んに行われるようになっていた。これも大和運輸がシェア拡大と急成長している背景にあったのだ。
有坂総一郎は自社で開発し生産し始めた家電製品を販売するにあたって、従来通り百貨店に卸すという手法を使っただけでなく、持ち運べて簡単に使ってみせることが出来る炊飯器やトースターと言ったモノをトラックに積み込んで集落の集会所や地主宅に持ち込み、訪問販売会形式で実演販売をすることを始めたのであった。
電気の普及は地方であってもこの時代では相当に進んでいたこともあり、炊飯器に関しては飛ぶように売れたのであった。この経験を活かして、在庫を本社倉庫や拠点倉庫に集積し、電話があれば発送するという方式を取ったのである。
そうなると百貨店や他の事業者も似たようなことを始めたことで訪問実演販売や主要駅前に拠点店舗を設置し、大型商品は配送まで引き受けるという現代日本ではよく見る光景が32年頃までには全国各地で見られるになったのである。
流れを作ってしまえば、労力と手間の掛かるそれを他の事業者に任せてしまえば良いと考えていた総一郞はさっさと手を引いて生産と卸売りに集中させたのである。一度便利な通信販売という形態が普及してしまえば貨物取扱量が増大していくのは誰の目にも明らかであった。
需要の増大はそのまま自動車生産に直結し、自動車製造業は増産を求めらるようになり、それが工場の規模拡大、雇用の増大、道路の拡幅舗装という流れが出来上がっていったのだ。急激に膨らんでいく流通という怪物は日本の経済と社会を確実に変革させていったのである。
だが、悲しいことに急膨張するそれ追いつかない道路事情と土木建設は情勢を逼迫させていくのである。特に鉄道省が土建業界を抱え込んでしまっていることで道路建設に回せる土建業者はそう多くはなかった。
帝都近郊鉄道路線の改良事業が終了して他線区への転用待ちであった土建業者を内務省が帝都復興を理由に根刮ぎ抑えて京浜地区に投入したことで幹線道路と産業道路の建設がやっと始まったのが27年頃であったのだ。その成果が出始めたのは30年頃だった。
東京-小田原・横須賀という東海道筋の主要道路が整備されると東京-八王子、東京-宇都宮、東京-前橋、東京-常磐、東京-千葉というそれぞれの軸、そしてそれらの軸をつなぐように蜘蛛の巣状に道路建設が始まっていったのだ。
これらの整備が概ね終わるであろう時期は35年頃と見積もられているが、陸海軍がそれに目をつけないはずがなかった。陸海軍ともに航空機の進化、発動機の開発の進捗というそれから将来的に各地に飛行場を増設することになると予感していたのである。それが主要な戦力になるかどうかは兎も角、欧州大戦での戦訓を見る限り、そして支那大陸で所沢教導飛行団が示した有用性から航空戦力の増強は不可欠であった。
だが、航空隊を増強するにしても現状は広大な原っぱがあれば十分であったが、専用のコンクリート製舗装滑走路が欧州各地で整備され始めていることを駐在武官から報告を受けていた陸海軍当局は生来はそれが主流になると踏んでいたのだ。
陸海軍は飛行場専門の設営隊や工兵部隊を有していたわけではないが、内務省の道路建設事業に着目し、研究と実際の設営に役立つと考えていた。
陸軍は独立工兵連隊を複数有していたこともあり、これらを母体とした飛行場設営専門の工兵連隊を設立することを画策し、付き合いの深い有坂コンツェルンに道路建設機材の調達を依頼し、アメリカから輸入することに成功していたのである。また、自前の経験で得たブルドーザーを大阪工廠で量産して配備した。
海軍に先んじて十分な建設機材を揃えた陸軍は習志野にある鉄道連隊や演習場の関係から東京-千葉の道路軸を引き受けることを内務省に通達し、市ヶ谷から九段坂を経由、総武本線に沿って県と千葉へ向けて道路建設を開始していったのである。
道路建設に先立って内務省は帝都復興予算という自分たちが好きに使える予算を用いて用地買収を進めていた。無論、代替地や代わりの住居は内務省が設立した公団が提供する賃貸住宅であり、しっかりと買収資金を回収するように仕組まれていた。
これによって国家事業という名の下に各地で半ば強引な手法がとられつつも道路建設が推し進められるようになったのである。




