交通新時代<1>
皇紀2593年 7月1日 大日本帝国交通情勢
年初から有坂総一郎にとってこの33年は憂鬱なことばかりであった。だが、そんな中にも明るい話題はいくつかあった。
その最たる例が丹那トンネルの完成であった。このトンネルの完成によって御殿場経由よりも11キロ程度区間短縮となり、また峠越えによるスピードダウンや補機連結と言った輸送上のボトルネックが解消されることになった。
丹那トンネル開業に際して東京-静岡間の電化工事が行われ、輸送力の増強と運転速度の増速が行われたのである。これは長大トンネルである丹那トンネルを蒸気機関車運転させることによるデメリットを解消することが主目的であった。しかし、トンネル前後だけを電化するよりも、東京-静岡間をまるごと電化してしまうことで同じく長大トンネルである日本坂トンネルの付け替えにも有利と判断され、電化工事が一気に進んだのであった。
このとき、東京-静岡間は新鋭のEF53形電気機関車が集中的に配備運用されることとなった。
EF53形は史実同様に1932年から新製配備が始まったばかりの幹線用急行旅客機である。設計速度は史実よりも速い130キロとなり、28年から配備の始まったC53形蒸気機関車とともに130キロ運転が可能となった鉄道省期待の新鋭機である。
ロンドン軍縮条約の際に外務省が鉄道省に断りなく大英帝国に媚びを売って独断購入して押しつけてきたEF50形電気機関車から進化した系統であるのは史実と同様であり、史実の知識としてこの英国製電機を使いこなすためには大いに苦労することを知っていた総一郞であるが、一切これについて鉄道省には手を貸さなかった。
しかし、製造元であるイングリッシュ・エレクトリック社とノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社に予備部品を大量に注文しておき、鉄道省から依頼がくればすぐに機関区へ送り届けることで補助することに徹していたのだ。
これには電気機器というものを習熟させることと、英国製の電気製品と米国製の電気製品の違いを実地で理解させることで自前での電気機関車開発の礎にするためだった。実際、その予備部品は使い切ることはなかったが、故障の度にどうやって使いこなすのか、実地での習熟は大いに役立つこととなった。
その後、アメリカはウェスティングハウス社製のEF51形やED53形の導入と運用実績によって英米双方の優れた部分を活かすことでEF52形が開発された。これはある一定の成果を上げることになるが、やはり習作的な部分が多く、個々に問題を抱えていたこともあって本格的な量産に至らなかった。
そして32年。EF52形によって問題点を洗い出したことで自信を持って鉄道省と鉄道車両メーカー(日立製作所、芝浦製作所/汽車製造、三菱造船/三菱電機、川崎造船所/川崎車輛、日本車輌製造)5社が送り出したのがEF53形であった。
蒸気機関車と異なり、加速力と牽引力に優れることもあり登場すると同時に近郊区間の普通列車牽引に充当されると一部で始まっていた電車運転と並行ダイヤが組めてしまった。これに気を良くした鉄道省幹部たちは関東地区の在来線普通列車を電化してしまおうと考えたのである。
だが、この考えに待ったを掛ける存在があった。陸軍省である。
軍部としては戦時において空爆や艦砲射撃で発電所や変電所が被害を受けた場合、鉄道運行が不可能になり、継戦能力に影響が出てくると考えたのであった。だが、史実において実際には彼らの言い分は的を得ていたが、そういった被害が殆ど出ることはなかったのである。逆に蒸気機関車が狙い撃ちされてボイラー爆発などと言うことは艦載機による本土空襲が増えると若干ではあるが発生していた。実際、東京大空襲があった日でさえ、鉄道運行は行われているのだから日本の鉄道と鉄道を支える人間たちは強いのである。
そして、反対の声は鉄道省内部からも上がっていたのである。配置換えになる機関士たちが中心ではあったが、機関区の職員たちも声を上げていたのである。動力近代化という名の下に自分たちの職場を奪うのではないかという懸念の声であった。
鉄道省はこの機にいくつかの機関区を集約統合して人員の削減や転属を考えていただけに職員たちの声にはある意味後ろ指指されている様なものだった。
陸軍省の方には変電所の増設や隠蔽で対応すると説得を続け、職員向けには人員削減はしないと約束することでEF53形の配備計画と電化計画は順次進めることが出来るようになったのは丹那トンネルが貫通した日と重なったのは偶然であったが、鉄道省にとっては暗闇から一条の光が見えた様に思えたのは間違いない。
貫通してからはあっという間にトンネル内部の工事が進み、7月1日に開業という段取りになった。車両メーカー各社も一時的にストップしていたEF53形の製造の遅れを取り戻すかのように量産体制を再び構築して33年初夏には50両全数を揃えるに至ったのだ。
初期生産分は32年中は東京機関区に一括で12両が配備され普通列車を中心に運用され、後期生産分が出揃った33年6月には東京機関区と沼津機関区(書類上、トンネル開通後に正式に配備)に21両ずつ、高崎機関区に8両が配備されると特別急行と急行を中心に充当されることとなったのである。
こうして舞台が整い7月1日の開通、白紙ダイヤ改正が行われ、日本列島はさらにぐっと縮まったのである。




