昭和三陸地震
皇紀2593年 3月15日 東北地方
史実では3月3日に発生した昭和三陸地震であるが、この世界では多少の遅れがあったものの13日にほぼ同規模で再現された。
前兆現象としてイワシ・マグロ・カツオが豊漁であったと報告があったこともあり、東條英機少将と有坂総一郎は地震の発生を確信し、東條理論の名の下に過去の事例と比較をしたという体で年始以来根回しを水面下で行うことで被害軽減に努めていた。
関東大震災における予想的中、英雄的指揮による被害軽減に寄与した東條の言を受けた政府や東北帝大などは危機感を持ってこれに取り組んでいたこともあり、結果としては津波による人的被害を少なくすることに成功していたのだ。
具体的には明治三陸地震を再調査し、津波浸水のハザードマップを作成することで地震が発生したら向かうべき避難先を視覚化・明確化したのである。これによって、避難用の道路の整備が優先的に行わなければならないと判明した。三陸地区の自治体は勤労奉仕を住民に求め、彼らもそれに応えたことから立派な避難経路とは言えないまでも、迅速に避難するための通路を2月末から発生当日までの間に完成させることに成功していたのである。
これによって地震発生とともに役場からサイレンが鳴らされすぐさま避難が始まったことで取り残された者や動けなかった者を除いて多くの住民が高台へ避難することが出来たのである。
ただ、残念なことに予想された津波の最大遡上高よりも遙かに高い場所にまで浸水したことで津波の引き波により海中にさらわれた人が発生していた。これは史実においても同様の傾向であり、被害軽減にも限界があることを示していたが、それでも明治三陸地震の記憶と経験は確実に被害軽減へと活かされていたのであった。史実における死者行方不明者は3000余名といわれるが、この世界ではその半数以下に抑えることが出来たのは幸いであったと言えるだろう。
人的被害については劇的とまでは言えないが、事前の避難経路の確保と以前の記憶経験が役立ったことで軽減出来たのではあるが、流石に津波による家屋流出などまではカバーしきれるものではないため、倒壊流出は6000件弱と史実とそれほど変化はない。
この地震で東條と総一郞がもっとも頭を抱えたのは釜石製鉄所という存在であった。釜石製鉄所は釜石の市街地に存在し、釜石湾に面していることもあり、津波被害があった場合、工場施設がまるごと流出するか浸水被害に遭うだろうと予測されていたのである。
この時期、釜石製鉄所を運営していたのは三井財閥系の釜石鉱山であった。
釜石製鉄所と釜石鉱山は官営時代、田中家、田中鉱山、釜石鉱山と変遷があるが、近代製鉄業の発祥の地であり日本最古の製鉄所でもある。戦前までは比較的大規模な製鉄所で銑鋼一貫製鉄所として日本の近代化に大いに貢献している。
東條や総一郞にとってこの製鉄所を守ることは人的被害よりも優先すべきことであった。その冷徹な判断によって20年代後半から釜石鉱山への経営に徐々に浸食していった有坂コンツェルンの意向もあり、工場の移転が32年年末までには完了し、市街地に残った旧工場地区は一端は更地にしてそれから盛り土と地盤強化を行うことで従来よりも10m程度かさ上げを行うこととなっていた。
このかさ上げ工事そのものは地震発生までに完工することはなかったのではあるが、釜石市街地でもっとも高台に位置することになり、市街地からの避難民が集まり、裏手の山へと避難する際の一種のセーフティーゾーンとして一定の役割を果たすことには成功したのである。
また、釜石鉱山鉄道は釜石駅で発車待ちをしていた貨物列車に住民を乗せ、内陸へと急いで発車させたことで難を逃れた者たちも居たのである。ただし、地震直後に列車運行を行ったことの是非については議論が出ることになる。




