独立混成第1旅団
皇紀2593年 3月10日 帝都東京
三土忠造内閣が成立して陸軍大臣に就任した荒木貞夫中将は腹心である小畑敏四郎少将を次官に就けるとすぐさま帝国陸軍の偉容を帝国臣民へ示すことを画策したのである。
紀元節である2月11日には日程的な都合で間に合わないことを考え、陸軍記念日である3月10日に軍事パレードを行うことでその威勢を示すとともに軍の近代化をアピールすることで、帝都や横浜などに拠点を構える外国人にも帝国陸軍の充実ぶりを意識づけることで極東における軍事的優位性を示そうと考えていたのだ。
特にこのパレードの目玉は荒木が主張し充実を図ってきた機動砲を装備した機動砲兵連隊、東條英機少将と原乙未生少佐が主導して騎兵連隊を改組した赤菱製山猫、軽装甲兵車、九二式重装甲車を装備した捜索連隊だ。
荒木が陸軍大臣に就任した当初、機動砲の生産は順調に推移していたが優先配備は関東軍などの外征部隊であった。しかし、比較的情勢の安定している浦塩派遣軍への機動砲配備を撤回すると本土へ還送させることを通達、参謀本部が非常に不満を漏らすことになったが、荒木の内意を受けた閑院参謀総長宮載仁親王は荒木の盟友でもあり自身の参謀次長でもある真崎甚三郎中将に命じすぐさま機動砲連隊を帝都近郊へ移駐させたのである。
この措置で浦塩派遣軍の即応性が低下したのではあるが、最前線部隊ではないこともあり従来の砲兵連隊配備でも当面は事足りると判断されたのである。無論、その手当として本土に存在する砲兵連隊から戦力を抽出した独立砲兵旅団を代わりに増派している。
浦塩派遣軍から出戻った砲兵連隊は本土で改編中だった捜索連隊とともに独立混成第1旅団を編制すると本格的に行軍演習を習志野演習場において繰り返すようになった。
このとき、総武本線津田沼駅と鉄道連隊演習線の直通化が図られ、同時に鉄道連隊は演習線を全線標準軌へ改軌することで演習場への車両搬送を容易にする大工事を行うことになる。第1、第2鉄道連隊が総力を挙げることで突貫工事の末、2月上旬までに速度制限付きではあるが標準軌運転が可能となり、鉄道省から導入した9600形貨物蒸気機関車牽引の輸送列車の入線している。
この結果、9600形貨物蒸気機関車が運用可能となったこともあり、従来のE形蒸気機関車を置き換えることが出来、輸送力を確保出来るようになったメリットは大きく、また、導入されたばかりの九一式広軌牽引車とともに鉄道連隊の能力強化に寄与することとなった。
しかし、陸軍がこういった大規模な動きを見せた割に陸軍省への政府予算の交付はそれほど大きく伸びていない。
では、そのケツ持ちをしたのは誰かと言えば、占領地の鉄道行政という権益に口を出したい鉄道省であるのは誰の目にも明らかであるが、他にも千葉県において有力企業である京成電気軌道や新興企業であり陸軍との癒着が著しい赤菱自動車製造もまた名を連ねているのだ。
特に北総方面への影響力増大を狙う京成電気軌道は習志野原の将来的な開発に際して、鉄道連隊演習線の旅客営業が可能になれば大きな利益を見込めることから献金と資材の献納を行ったのである。そして、英雄将軍の揮毫による駅名標などを関係する主要駅に掲示するなど、親軍姿勢を表明することで軍都習志野への投資効果を狙っていたのだ。
こういった動きが複合的に重なったことで荒木の目論んだ精強陸軍の軍事パレードの準備は加速度的に進んだのである。
そして3月10日当日、三宅坂の陸軍省・参謀本部前を出発した宮城前広場において独立混成第1旅団はその威勢を示すかのようにゆっくりと行進し、二重橋前の観閲台において大元帥天覧の栄を浴し、大手門・九段坂を経由して市ヶ谷の陸軍士官学校へと隊列は行進を続けたのである。
このとき、沿道には多くの帝都市民、そして外国人の見物客が押し寄せた。特に英米は記者だけでなく駐在武官などがつぶさにその実力を推し量るかのように事細かにその隊列の様子をメモし、また隣り合う士官同士で意見交換を行っていた。
無論、これは無益な争いを避けるためのデモンストレーションであることは言うまでもないが、それであって相手がどう受け取るかによっては過剰な刺激となることもある。未だに緊張状態にあるソ連の武官などにしてみれば自分たちへ切っ先を向けられていると暗に示すものであるし、大英帝国に取ってみれば支那大陸における権益の共同防衛に大きな安心感を与えるものである。だが、アメリカにとってはどうであろうか?
各国の受け止め方を荒木は観閲台からどのように見ていたのであろうか……。




