大角の狙い
皇紀2593年 3月10日 世界の建艦の動向
史実において重巡洋艦という種別は1930年のロンドン軍縮条約によって備砲8インチ以下、1万トン以下のカテゴリーAの艦を定義したことで発祥した。さらに言えば、この規定が誕生した経緯には22年のワシントン軍縮条約による補助艦艇の巡洋艦という定義に端を発する。
当時、大日本帝国海軍はワシントン軍縮条約によって時代遅れとはいえども建造年数が浅い前弩級戦艦や準弩級戦艦を廃棄することとなり、次世代を担う八八艦隊もそのタイプシップである長門型以外の建造を認められない厳しい主力艦制限を受けていた。
条約締結後直ちに大日本帝国海軍はワシントン軍縮条約に基づく補助艦艇の強化増強を実行したのである。それが古鷹型という巡洋艦の誕生に至る。これに刺激を受けた列強は当然のように8インチ砲搭載巡洋艦の建艦競争に突入したのである。
古鷹型に続いて改良型の青葉型、そして本格的な1万トン級巡洋艦として妙高型が建造され、旗艦能力を強化した高雄型へと発展していった。高雄型に改良を施した5番艦以後も計画されたが、列強は条約上主力艦のような厳しい保有比率制限を受けない補助艦艇である巡洋艦の建艦競争に危機感を抱くことになる。特に妙高型に続く高雄型の登場は文字通り脅威として受け取り、補助艦艇も含めた新条約の締結を企図したのである。
そして30年のロンドン軍縮条約において砲口径6.1インチ(155mm)超過8インチ(203mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6.1インチ(155mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と分類し、保有制限枠を設けたのである。そして、前者が重巡洋艦、後者が軽巡洋艦と通称された。
こうして重巡洋艦、軽巡洋艦という区分が確立された。だが、この世界ではその枠組みが完全に崩壊していたのだ。
1万トン級では満足な性能である艦艇にならないことから大英帝国政府と王立海軍首脳は有力な艦艇を得ることを目的に条約破りを公然と行いドレッドノート・クルーザーもしくは比類なき屈強な巡洋艦と称される1万5千トン級超巡の建造を開始したのである。
これに刺激を受け、ドイツが欧州大戦以前の旧式戦艦を廃艦するという名目で代艦として襲撃艦の建造に取り掛かったのだ。無論、漁夫の利を得ようという目論見であることは誰の目にも明らかであるが、旧式とは言えど戦艦を退役させるということであれば代艦建造を認めること自体を否定は出来なかった。それどころか、大英帝国はドイツと手を握り既成事実化の共謀者に仕立て上げてしまったのだ。
これには列強各国ともに既成事実化を認めるほかなく、また、現実問題として自国の1万トン級巡洋艦に性能的な無理があることを承知していたこともあって有耶無耶のうちに1万トン制限が空文化、1万5千トンへのエスカレートとなった。
大英帝国はこれに伴いカウンティ級15隻から8インチ砲を撤去し、代わりに6インチ砲を搭載するという大改装を行ったのだ。史実で言えばカテゴリーBへ種別変更して空いたカテゴリーAに超巡を宛がったのである。
この効果は絶大でかつて装甲巡洋艦が搭載した10インチ砲を積む超巡が出揃ったことで火力不足と船体の余裕のなさを一挙に解消したのである。しかも、カウンティ級は8インチ砲搭載時に性能不足と判定されていた部分がカテゴリーB規格では何の不都合もなくなってしまったのだ。しかし、逆に従来のカテゴリーB規格の軽巡は軒並み性能不足に追いやられてしまったのである。
この動きはフランスとイタリアにも波及するかの様に見えたが、両国は超巡規格にはそれほど魅力を感じなかったのは、新型戦艦への意欲を出していたのだ。それは最終的にはフランスにおいてはダンケルク級中型高速戦艦、イタリアにおいてはヴィットリオ・ヴェネト級戦艦という形で結実した。
両者ともに30ノットを超える高速性能を誇り、また、主砲口径はそれぞれ13インチ、15インチと超巡を圧倒出来る能力を有し、それをもって対抗することにしたのである。また、イタリアについては最初から条約遵守する気などないかのような設計で1万2千トン級として建造していたこともあり日英米ほどに性能不足に困ってはいなかったことも超巡規格に興味を示さなかった理由の一つである。
そしてアメリカは大日本帝国海軍が1万トン級巡洋艦を建造しなかったことから専ら対英仏への手当としてのみ建造していたこともあり整備は遅れ気味だった。ポートランド級の建造は中止され、直後にポートランド代艦として史実ボルティモア級重巡に準拠した艦が建造されることとなったが、8インチ砲搭載巡洋艦としては一端打ち止めとなったのだ。
その後に打ち出したのはアラスカ級戦闘巡洋艦という巡洋戦艦の亜種であった。ダニエルズ・プランで推し進められたレキシントン級巡洋戦艦をより巡洋艦に近い性格にしたものであった。
単艦でも通商破壊作戦に投入出来る能力を持つ超巡、襲撃艦に対抗し、一方的に撃破出来ることを求められた結果、長大な航続力、高速性能、優勢な砲戦能力を有する艦として設計されたことで、戦艦並みの砲戦能力があるが、巡洋艦並の高速性能で、防御性能は中間くらいといういいとこ取りの様な性能となった。しかし、その結果、艦の排水量は3万トンを超える巨艦となってしまったのだ。
結果、その保有数は6隻を上限として制限を加えられることとなった。
そして大日本帝国。
古鷹型”軽”巡洋艦の建造から大日本帝国海軍は巡洋艦の建造を中断し、列強の動きを注視していたのだ。特に仮想敵国第一であるアメリカの建艦の動向をうかがっていた。
アラスカ級戦闘巡洋艦の建造に踏み切ったことを確認し、戦艦群の改装が終わった頃合いを見て第一弾として最上型”重”巡洋艦の建造を開始したのは国内的な事情だけではなかったのだ。
「これで無駄に時間とカネと資材を消費するアラスカ型に注力してくれるようになった」
海軍大臣大角岑生大将はニヤリと笑みを浮かべて艦政本部に指示を出したのである。平賀譲造船中将や藤本喜久雄造船少将らが十分な時間を掛けて研究と技術蓄積を行ったことで実現出来る域に達した最上型重巡洋艦の建造はこうして開始されたのである。
最初から50口径31cm砲へと改造することを計算された艦の設計であり、基本的な用途は敵艦隊へ夜襲を掛け、一方的に条約型巡洋艦や駆逐艦などを蹂躙することとされている。あくまでも艦隊決戦の露払い役という役割なのだ。
航空艤装を省略したのは水上捜索電探の開発が軌道に乗ったことで不要な装備として廃止した結果だが、これによって艦橋構造物に余裕が出来、艦隊旗艦能力が向上している。無論これは情報分析やそれに基づく戦闘指揮行う戦闘指揮所の設置が可能となったことによる。
欧州派遣艦隊による戦訓は戦場における中央指揮能力の向上の必要性を示し、それを大角は重視したのである。元々転生者としての知識のある彼は欧州派遣艦隊の報告を拡大解釈とそれへの自身の所見を示し海軍内部の指揮系統の意識改革につなげたのである。
現在、建造が進められている伊勢代艦や計画が進んでいる金剛代艦でもCICの設置を行うように指示が出され、艦橋容量が不足しがちな空母においても艦橋の大型化と煙突の一体化でCICの設置を要求しているのである。
これで艦隊決戦であろうと地方派遣艦隊や方面艦隊規模であってもCICが存在することで戦況に応じた作戦指揮を行えるようになり、また通信能力の向上による連携強化を模索出来るのであった。
大角が海軍艦艇の建造をあえてストップさせ海軍工廠の造船設備の拡充と民間造船所の拡充を優先したのは、これらの条件を整えるための時間稼ぎとして必要だったからである。
また、金剛型と長門型の改装においても艦橋の大型化で必要スペースを捻出していたこともあり、追加工事によってCICを設置している。だが、無理矢理設置した部分が否定出来ないため、新造艦に比べればどうしてもその能力は劣ることは否めない。




