イベント発生
皇紀2593年 3月7日 帝都東京
「いよいよ始まったな……」
有坂総一郎は妻の結奈とともに自邸にていつになく真面目な表情で語り合う。
2月1日のヒトラー内閣成立、27日のドイツ国会炎上事件、3月4日のフランクリン・デラノ・ルーズベルトの大統領就任、6日のドイツ国会総選挙と時代が加速度を上げて戦乱の世へと向かっていくこの一大イベントに彼らは直面していたのだ。
「もう少し穏やかにこの日を迎えると思っておりましたけれどね。いざその時が来たら流石に落ち着きませんわね」
結奈はこれからの世の行く末に歴史の当事者、史実を知る者として興奮とは違ったものを感じずにはいられなかったようだ。知っているからこそ、これから訪れるであろう災禍について憂鬱にならざるを得ない。総一郞は逆に興奮冷めやらぬといった体である。歴史イベントの当事者となりその行く末を左右する存在だと自認していることもあり一種のランナーズハイに近い状態だといえる。
対照的な二人ではあるが、事態の深刻さは彼らがどう感じていようが変わることはない。
だが、32年夏の時点で多少の日時のズレはあってもこうなる結果は予想されていただけに彼らの準備は万全だと言えるだろう。
「これからが正念場、米帝様はフーヴァー政権下で史実よりもいくらか弱体化しているようだが、ニューディール政策という名の統制経済と社会主義的政策をカンフル剤として連中はガンガン突っ込んでドーピングを始めるだろう。尤も、史実のニューディール政策そのものはカンフル剤の役割をそれほど為していないけれど」
総一郞はニューディール政策を評価していないことがありありと見受けられる表現をする。実際、アメリカ経済が大恐慌から立ち直ったのはニューディール政策ではなく、戦時経済による軍需大増産による国家総動員体制になったことによるものだ。
回復したかのように見せかけているのは金本位制停止による金融緩和と金融政策による銀行と証券の適正化が大きい。その証拠に金融引き締めを行った37年を境に再びGDPは収縮している。要は見せかけの景気回復でしかなかったのだ。
「けれど、公共工事の大量発注で雇用環境が改善したと聞くわ」
「確かにそういう部分はあるけれど、TVA一つとっても違憲判決だらけで、親ルーズベルトな法律家を司法当局に送り込んで無理矢理ねじ込んでいるからどうなんだろうね?」
「とういうことは、アメリカ国内で暫くは政策実行に抵抗する勢力が立ちはだかるということね」
「まぁ、そうなんだけれど、いくら抵抗しても魔王軍に立ち向かう勇者でもなければ戦い抜くことなんて出来ないさ。早晩、米帝はルーズベルトという魔王によって支配されるようになる。それに史実を上回る支持率だしね。けれど、それだけ期待値が高いと言うことはちょっとした失敗でも失望に変わると言うことでもある……そういう意味で半年から1年は様子見だね、魔王の真の実力は来年にわかるさ」
「そうね。でも、私たちはどうするのかしら? GNPだけ見たら史実の2倍程度にまで引き上げられているけれど、それでも結局は帝都を中心とする京浜工業地帯と阪神工業地帯、北九州工業地帯くらいなものよ? 工業地帯の疎開も進んでいない。むしろ、列島改造の効果で帝都への集中が増えたくらいじゃない」
「ストロー効果の恐ろしさを甘く見ていたよ。この国の鉄道網、物流は帝都を中心にしているからっどうしても帝都に向かってヒトモノカネが流れていく、そしてモノだけが地方に下っていく……思ったよりも東北など地方の開発が進まない」
彼らはストロー効果による帝都への集中を甘く見ていた。史実でも戦後のそれで東京にヒトモノカネが集中していたが、結局はそれを30年早めてしまっただけだったのだ。
特に列島改造に伴う改軌で列車の高速化と重量化が可能になったことで時間距離が短くなったこともあり東北地方の余剰人口が帝都近郊に流れ込んでしまったのだ。無論、これによって労働人口に余裕が出来たことは京浜工業地帯の発展に大きく寄与したのだが、代わりに東北地方への産業の移転が停滞してしまったのだ。
大河内正敏子爵は理研総帥として理化学研究所と理研財閥に新潟県を中心に地方へ工場の新設を進めているが、過度な帝都への集中を是正するように内務省や鉄道省に何度も苦情を申し立てていたのだ。国策としてやっているはずなのに、地方の発展の阻害にしかならないと大剣幕であったという。
「電力王たちが各地で水力発電事業に取り組んでいるけれど、それだと中心は東海地区であるから中京工業地帯の成長を促すだけであるからね……」
「赤字83線のうちいくつかを地方発展のために建設させたらどうかしら?」
結奈はそう言うが総一郞の表情は渋い。
「あれらを建設しても効果は薄い。それなら地方中核都市の市内交通に地下鉄やLRTを敷設する方が良いだろうな。さらに言えば道路行政を効率化して高頻度バス運行する方が地方都市の活性化に繋がる……あとは地方都市間の高頻度運転か……」
結局は地方発展の起爆剤が産業の移転であり、産業の移転なくば帝都への集中は致し方ないという結論だ。
「まぁ、どう転んでも国内の産業育成を進めるほかないさ。あとは自動車の量産数を増やすこと。工作機械の普及はずいぶん進んだけれど、それでもまだこれからだ。製鉄なんかもまだ足りないしね……大河内子爵の理研産業団も化学プラントやピストンリング工場がまだ足りないと言っていたくらいだからね」
「身の丈を超えた膨張ではなくて?」
「米帝様と事を構えるためにやっているんだから身の丈なんて……」
「そうでしたわね」
明らかに国力は、生産力は拡大している。経済も好調に推移している……けれども、一寸先は闇である。今日、この日は大英帝国と協調関係であるが、いつまた日英同盟を切られた時のように手のひらを返されるかわからない。
満州や支那の権益を多少でも譲ってこちらの陣営に引き込む工作をしていても、どだい外交能力は向こうの方が上なのだ。あくまで日本のやっていることは自分の取り分を相手に渡して賄賂でつなぎ止めているに過ぎない。
故に自力で大英帝国相手に喧嘩が出来る程度にまでは国力を伸張させる必要があるのだ。それは生産力であり、資源であり、科学力である。
なりふり構っていられないのだ。事実、有坂コンツェルンも子会社を次々と設立し、地方に分散して工場を建設しているが、それだとてどれほど寄与しているか考えれば誤差の範囲であると感じることが総一郞は日常であった。
「間に合わせるためには、まだまだ我々も突っ走っていかねばならんさ。そのためにも東條閣下には陸軍大臣になってもらわなければ……」
「そうですわね……荒木さんが今度の陸軍大臣になられたそうですけれど、あの方は砲兵中心の予算を組ませている様ですから益々忙しくなりますわね」
「あの人はよくわからん……歴史の通説が当てにならんと思い知らされたからね。だが、それでも、我が社が機動砲の量産を行えばその分だけ現場の兵たちの負担が減る。史実のような火力不足に陥ることはない……さぁ、ここらで褌を締め直さないとな」
総一郞はそう言う。
「トランクスを穿いているのにどうやって締め直すのかしら?」




