帝政旗と鍵十字旗を振る者
皇紀2593年 3月6日 ドイツ=ワイマール共和国 ベルリン
ヘルマン・ゲーリングとその配下によってオランダ人共産主義者マリヌス・ファン・デア・ルッベが捕らえられ、彼の自供により共産党とコミンテルンの関与が判明した。
27日午後10時半には首都ベルリン全域に戒厳令が公布され市中の往来や出入りが制限されるとそのまま二人の共産党議員が共犯であるとしてプロイセン州政治警察局は発表を行い、犯人のルッベの供述も同時に発表した。
「国会議事堂に火を付ければ革命勢力が立ち上がると考えて放火を行った」
ルッベの供述は矛盾するところも多々あったが、プロイセン州内務大臣でもあるゲーリングはあえて目を瞑り共産党弾圧に利用するため誇張した発表を行い、整合性がとれる内容に調書も書き換えたのである。
明らかに脱法行為であるが、プロイセン州警察もまたそれに目を瞑ることにしたのである。実際、プロイセン州を共産主義者とその一派が州政府の要職を占めるという事態が発生していたこともあり、彼らも危険視していたこともあり弾圧の好機と手を握ったのである。
日付が変わり28日になると国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、続いて共産党系新聞はすべて発行停止が命じられた。
矢継ぎ早のこの命令はすべてプロイセン州警察をコントロール下に置いたゲーリングによるものであり、同時に首相官邸で閣議を行っていた首相アドルフ・ヒトラーは「民族と国家の保護のための大統領令」「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」という二つの緊急大統領令を提案し、副首相フランツ・フォン・パーペンにこれを承諾するように迫っていた。
これは法的根拠を超越した非常大権を内閣の手に置くことで、言論・報道・集会および結社の自由や通信の秘密は制限され、令状によらない逮捕・保護拘禁が出来るようにするものであった。
流石にこれにはパーペンが抵抗するに見えたが、意外にもパーペンはこれに賛意を示した。ただ、条項にいくらかの修正を加えることを条件としたことで若干の適用条件に規制が掛かったが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクもまたこの修正案に黙ってサインをした。これによって直ちに3000名にも及ぶ共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束されることになった。
これらはすべて28日中に行われ、即日適用されることとなったのだが、政府によって連邦各州の実権を掌握出来る様になったことで国家権力の強大化と統制力の強化が実現出来たことも大きかった。
そして3月1日。ゲーリングはラジオ放送において熱弁を振るった。
「共産主義を我がドイツ民族から抹殺することが私の最も重要な責務であり、敵に対してはテロルの使用が不可欠である。我々はこの困難において屈することなく戦い抜く。そして勝利の暁には再び我らが偉大なドイツ国家に栄光の日々が来たることを約束する」
かつて欧州大戦における英雄が語る言葉に聴衆は大きく奮い立ち、政府による白色テロを支持するようになっていった。ゲーリングによる指導の下で共産主義者は次々と警察によって予防拘禁されることなる。強力な指導力が発揮され”国家の敵”、”民族の敵”と名指しされた彼らが拘禁されていくそれに恐怖を覚える者たちも居たが、多くの者はそれを許容した。また、3日は無政府主義者、社会民主主義者も対象となり、その多くが投獄されることになったのだ。
こうして迎えた5日……ドイツ国家議員総選挙はナチ党の圧勝と……ならなかったのである。
蓋を開けてみるとナチ党は改選前の190議席程度から確かに議席を大きく伸ばしたが250席程度であり、史実の290議席程度と比べると伸び悩んでいた。
代わりに躍進したのが中央党と国家人民党であった。中央党は100議席程度、国家人民党は70議席程度と史実よりも20議席程度伸ばしていた。史実と比較してナチ党が失った議席はこの中道保守政党に分配された形になったのである。
というのも、ゲーリングが中央党と国家人民党の両方に選挙応援に出向き、彼らを持ち上げることでゲーリング人気で彼らの得票が大きく伸びたからである。
中央党はカトリック系の企業家や大土地所有者から手工業者、農民、労働者まで諸階層を党員に抱えており、そもそもが”強力な君主制の堅持”を標榜していたこともあり、帝政派に近いゲーリングとは良好な関係を築いていたのだ。
国家人民党もまたその支持基盤が大地主貴族や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする”ブルジョワ政党”であり、ドイツ皇室の復活を求める帝政復古派も多かったこともあり、これもまたゲーリングと良好な関係を築いている。
ゲーリングの本質からすればナチ党よりも中央党や国家人民党の方が親和性が高いのである。そして、ゲーリングに連なる人脈もまたこれらの政党と繋がっているだけに選挙応援の効果は高かったのだ。結果としてゲーリングは自身とつながりがある政党の議席170議席、そしてナチ党内のゲーリング派40議席と併せて210議席程度を自身の影響下に置いていたのだ。
この選挙の結果を保守勢力とナチ党の地滑り勝利と考えることが出来るが、ゲーリングの勢力が実質的第二党という地位に就いたというものであった。
最終的な議席配分は以下の通りである。
全議席:647議席
国家社会主義ドイツ労働者党:254議席
ヒトラー派:182議席
ゲーリング派:42議席
その他:30議席
ドイツ社会民主党:120議席
中央党:100議席
ドイツ共産党:80議席
ドイツ国家人民党:73議席
バイエルン人民党:20議席




