分割して統治せよ!
皇紀2593年 1月17日 帝都東京
この世界の大日本帝国は普通選挙制度が未だに実現されていない。史実であれば1925年に男子普通選挙制度がスタートしているが、暗殺から生き残った原敬を中心に高度教育を受けた者、地域名士、財界人、一定額以上の納税者に限った選挙制度を維持し、参政権を制限することで政治の質を維持しようと画策したのである。
この方針は有坂総一郎による周旋の結果によるもので、東條-有坂枢軸に属する財界人や官僚らからも支持され、後藤新平や仙石貢などによって政界工作が行われて帝国議会の方針として、帝国政府として、普通選挙制度は時期尚早という流れに矯正していたからである。
実際にこの方針は大きく評価され、世論の支持を受けることになる。
男子普通選挙制度が帝国議会において廃案へと追いやられることと並行して赤化勢力によるテロ事件やテロ未遂が頻発し、その度に憲兵隊や内務省の活躍で赤化勢力が徹底的に掃滅されたのだ。この状況で世論は政府や議会の時期尚早論が正しいと認識したのであった。
世論における普選運動の沈静化はそのまま議会内における圧力にもなったのである。
地域の名士たちは自分の基盤が安泰になったと錯覚した者も居たが、弾丸列車構想や日本列島改造論などに後押しされて新興の名士や中央政財界とのパイプの強い企業家などがポツポツと出始めたことでその地位を脅かされるようになった。
従来の名士が代議士となって地域を代表していることが多いが、地域経済や地域振興という点で言えば、新興勢力が中央とのパイプや資金力で成り代わることが出来たのである。これは従来の名士にとっては脅威であり、議会内で存在感を示し、地元へ利益誘導を行うことを必死に取り組まなければならなくなったのだ。
これによっていくつかの地域は胡座をかいていた老舗が引退し、新興勢力に成り代わることになった。またいくつかの地域は必死にその地位を守り抜き地域へ奉仕する様になったのだ。普選運動の沈静化はそのまま在来の勢力図を変えることにもつながり、時代について行けなかった者が退場する方向へと促すことにもなったのである。
だが、その一方で面白くない者たちも居る。女性参政権を求める者や女性解放運動家である。
赤化勢力と対になって女性の解放を求めていた伊藤野枝は関東大震災直後に甘粕事件によって史実通り謀殺されたが、彼女と同様に赤化思想を持つ女性活動家たちは赤狩りによって配偶者の多くが投獄処刑されたことで帝国政府や内務省、憲兵隊へ強い恨みを持っていた。
無論、治安組織側にしてみれば根刮ぎ潰してしまいたいのではあるが、理由なくしょっ引くわけにもならないこともあって、過激な行動に出る者以外の彼女らを泳がすことで赤化勢力の動きを監視し定期的に赤狩りを行っていた。
女性活動家たちも厳しい官憲の捜査や監視に根を上げて、赤化思想を捨てる者も出て、母子保護や、生活防衛などを目的とした様々な運動に活路を見いだす者も出てきていた。市川房枝らは赤化思想を抱いたままの女性解放運動や女性参政権運動は非現実的と判断し、平塚らいてうなどと袂を分かち、体制側に転化したのである。
このことに平塚らは激怒し女性の敵と激しく罵り、自身らが発行する機関誌などで糾弾した。だが、これがいけなかった。
元々平塚らは憲兵隊などにマークされていたにも関わらず、表だって抗議をしたことで完全に黒と判断されることになり、一時は付き合いがあった与謝野晶子もまた捜査線上に浮上し弾圧の対象となるかに見えたが……。
「平塚らいてうの如き振る舞いこそ憂うべきものなり」
戦嫌いと認識されていた与謝野であるが、そこには一線を引いていたのだ。そもそも与謝野は平塚らとは考えが違い、女性の自立論を唱え、「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張していたのだ。また、反ソ・反共を与謝野は自著で訴えていたこともあり、疑いが晴れることになったのだ。
このとき、内務省と文部省は与謝野を利用することを思いついたのである。
「これからの世は良妻賢母であることは言うまでもなく、女性が男性に依存するというものであってはならない。我々はそう考えている。先生に一つ、世論に向けて正しくあるべき女性の姿を示してもらえないだろうか」
無論、官僚側の考えた筋書きであるから、文字通り、額面通りに受け取るべきではない。女性参政権どころか男子普通選挙制度を否定しているのだ。基本的に政治参加などさせるつもりはない。
「よござんす」
与謝野は官僚たちの申し出にそう言うと執筆活動を始め、論陣を張ることになった。それこそ官僚たちの思うつぼであった。与謝野が張った論陣に素早く平塚や市房を含んだ女性活動家全体から賛否両論の反応が示されたのだ。
感情的に反発を引き起こすように誘導されたそれらによって危険思想を有する人物の特定が容易になり、また、女性活動家同士の思想の分断を促すことにつながり、文字通り、女性の敵は女性という構図を演出することになった。
この情勢に世間一般は淑女・大和撫子にあるまじき醜態と認識し、女性活動家という存在は世間から浮き上がった存在という印象操作にも寄与することになったのである。
これらの動きの結果、概ね33年に至るまでに女性活動家のほとんどは影響力を失い、また忌むべき存在という扱いに追いやることに成功していたのであった。
”分割して統治せよ”……帝国主義の植民地統治における基本政策であるこれを帝国の政治の世界においても運用することを総一郞は介入している歴代内閣において常に意識させ、特に赤化勢力と女性参政権(女性解放)勢力への解決策として示していた。
帝国という国家体制・社会システムを維持し、最高効率を求めさせた結果、社会構造を多層化させ、赤化勢力と女性運動は社会の最下層へと押しやり、社会の上層および中層から隔絶されたものとすることで既得権益を保持する社会一般はこれらに共感しないように仕向けられたのである。
文字通り、朝鮮半島におけるロシアから引き取ったウクライナ人を中間層として朝鮮人を隔離支配していることと同じ構図である。一部の不穏分子を明確な国内における敵および排除されるべき存在と認識させることで社会の統合を図っているのだ。
これを悪だというのは簡単である。だが、一部の危険思想が蔓延することに比べれば多くの人間が救われるという政治という概念では正しい行いであると言えよう。




