政治家中島知久平
皇紀2593年 1月9日 帝都東京
前回の衆議院総選挙において群馬県から出馬した中島知久平はその地盤を着々と強固なものにしていっていた。
政界再編により立憲政友会と憲政会が合流し立憲大政会が成立し、実質的な政友本党と二大政党制による保守対保守という赤化勢力が入り込む隙間のない帝国の政界において、その違いは外交的な手法の違いであったり、支持基盤の財閥がどこであるかと言ったものでしかなかった。
立憲大政会は基本的な外交姿勢は英独仏伊の等距離に置き一ヶ国だけに偏った接近をしない方針であった。これらの効果は軍縮条約において英米の対立へと促すという意味で絶大な効果を生み、同時にイタリアの地中海世界における発言力の増加へとつながった。
これらの外交方針と成果の原動力はやはり地道な接近工作によるものであり、中島飛行機とブリストル社の関係や有坂コンツェルンのダイムラー・ベンツへの出資、ナチ党への資金提供、ウィンストン・チャーチルへの意図的な情報漏洩といった積み重ねの結実と言えるだろう。
その立憲大政会の若きホープとも言うべき男が48歳の中島知久平であった。彼が選挙によって当選し、立憲大政会に所属した当初から彼の周囲には人が集まり、一種の派閥が形成されつつあった。その一人が堤康次郎であった。
政治家としては堤の方が先輩ではあるが、元々有坂邸謀議の一員でもあり、親交があり、お互いが手掛ける事業(多摩湖鉄道・武蔵野鉄道・西武鉄道沿線に中島飛行機の工場誘致)でも付き合いが深いこともあって政治家としても同じグループで活動することが多かったのだ。
お互い親分肌だけに衝突するように見えて周囲はハラハラさせられることが多かったが、意外とそうでもなく、それぞれの違いを認め合う形で折り合っていたのだ。
若手代議士が中島の元に集まるようになると、自然と官僚たちもまた彼に近づいていき、特に鉄道省との関係が深まっていった。
「弾丸列車構想も大詰めに来ている。次は津軽海峡、宗谷海峡にトンネルを通す。そして間宮海峡や対馬海峡にもトンネルが出来れば、内地だけでなく環日本海の経済的一体化は一層深まる。シベリアの資源を直接鉄道輸送出来るようになれば海上輸送に頼らずに済む。これは敵潜水艦による海上封鎖にも有利になる」
中島の言葉は省利省益を拡大し続ける鉄道省にとっても都合が良いモノであり、当然、軍部にとっても同様であった。
鉄道輸送はこの時代においてもっとも速達性の高い輸送手段であり、港湾設備が貧弱な極東地域においては最大の兵站システムである。そのシステムが内地だけでなく、シベリアや朝鮮半島経由で大陸と直結するのは軍部にとってはとても魅力的な提案であった。
鉄道省にしても自分たちが自由に出来る権益が内地だけでなく、樺太にまで拡大し、最終的には朝鮮総督府鉄道や沿海州鉄道までも併合出来る好機と考えていたのだ。無論、夢幻の鉄道省の大陸進出というそれだけでなく、彼らは現実的な内容である内海航路と競合する北海道-本州の貨物輸送におけるシェアの拡大というそれに大きな期待を掛けていたのだ。
鉄道省の省益拡大は財界にも無視出来ないモノであり、土建業界や車両メーカーなどもまた資金協力や選挙時におけるバックアップを申し出ていた。彼らもまた中島を通して軍部や鉄道省とのコネを強くしたいという打算によって突き動かされていた。
こうして政界進出して2年という期間でありながら中島の躍進は目を見張るものであったのだが、実際、中島が躍進したのは当然のことでもあった。それは彼が大変な努力家であり、政治家という職務を果たすのに十分な実力を備えることに躊躇なく全力投球していたからだ。
付き合いのある三井物産を使い、欧米から多数の書籍を取り寄せ、また、外交員から欧米のレポートを大量に送らせていたことで海外の政治経済に精通し、また国防関係の研究なども怠らなかったからだ。
原敬が暗殺されず政党政治が存続するこの世界であっても、やはり政治家の小物化は否めず、大政治家と小政治家・政治屋との格差は歴然としていたのである。大政治家の多くは立憲大政会において重職を担い、政治屋の類いは活躍出来ず反政権主張か地元への利益誘導を行うしか活路を見いだせなかったのだ。
そういった中で中島はその選挙戦を戦っていたときから頭角を現していたのであった。




