もう一つの箱船
皇紀2592年 12月24日 帝都東京 陸軍省
大英帝国海軍が選択した結果はある意味では無難な判断ではあった。運用するべき航空機が単発艦上機ではないという点を除けば。だが、その時に交わされた議論は別の新たな軍艦の創造という芽を息吹かせるのであった。
時同じくして大日本帝国においても陸軍が特殊船建造に取り掛かろうとしていたことと同期するものであったが、当事者たちはそれに気付くことはなかったが日英両国が出発点は別ではありながらも、目指すべきところが同じ強襲揚陸艦という新たな軍艦の建造を画策していたのは興味深い出来事であった。
大英帝国は航空母艦の運用方法という出発点、大日本帝国は欧州大戦の上陸作戦の戦訓という出発点、前者が海軍で後者が陸軍という対照的なそれである。しかし、この着目点は後の世に大きく影響を残すことになるのは言うまでもないことである。
欧州大戦および戦間期における上陸作戦は、沖合で輸送船舶から艀または小型ボートにデリックや舷側に垂らした縄ばしごで移乗、それから海岸へと向かうというやりかたであった。
特に欧州大戦ではガリポリ上陸作戦でこのやり方で連合軍は大規模上陸を敢行したが、時間が掛かる上に手間取っているうちにトルコ軍などに上陸地点付近を要塞化されてしまい橋頭堡確保すら危うくなり結局撤退するという結果になっている。
大日本帝国陸軍はこの戦訓から以下のことを理解し、その打開をしなければ上陸作戦という今後の戦争で起こりえる問題に対処出来ないと考えるに至った。
1、在来の泛水方式では上陸に時間がかかり奇襲効果が乏しいこと。
2、敵前の洋上で輸送船より舟艇に移乗するため危険なこと。
3、水深が浅いため小型輸送船しか使用できず、そのため積載艇の種類が限られその数も少なくなること。
また、32年1月に発生した上海事変における上陸作戦でも同様のことが確認され帝国陸軍は分析と自分たちの準備の方向性が正しいことに自信を深めていたのである。
上海事変では列強に手の内を晒すことをよしとせず、在来の方法による上陸作戦を行っていたが、独自行動が出来る部分ではいくつか実戦での評価を兼ねて陸軍特殊船の試作船による上陸が行われその結果、在来手法による上陸は無駄に出血をするだけと結論が出たのであった。
無論、帝国陸軍は特殊船という強襲揚陸艦だけを配備しようとは考えていなかった。
いくら効率が良いとは言っても、1万トンを超える大型輸送艦を平時に多数抱えているのは非効率であることは明白であった。予算に限りのある現状では多くても3隻程度を常時保有するのが限界と結論が出ており、33年中に竣工する神州丸、34年竣工の秋津丸、35年年竣工の饒津丸の3隻を整備する方向である。
しかし、これでは輸送力や展開能力が著しく制限されるため捕鯨母船としていくつかの水産会社に保有させ、戦時において徴用することで特殊船の数的確保を為そうと陸軍省は画策し、造船会社と水産会社に補助金を出すことで根回しを進めていたのである。
この根回しが功を奏した場合、最大10隻程度の1万トン級特殊船を民間籍において費用を節約可能であると陸軍船舶本部は考えていた。
だが、それでもまだ足りない。
兵員や重砲はそれで効率よく特殊船から泛水出来るし、重砲の代わりにトラックを積むことも出来るだろうが、それだけでは満足出来なかった。
時代は諸兵科連合部隊による電撃戦の夜明けを迎えつつある。
そうなれば上陸と同時に戦車や自走砲、牽引機動砲によって急速に敵領域内への浸透と強襲を行えるビーチング方式の戦車揚陸艦が望まれた。海岸に直接乗り上げて、船首の渡し板から戦車などを上陸させ、その直後から戦闘行動が可能であれば尚のこと良いと参謀本部では考えていたのである。
逆に言えば、ビーチング方式の戦車揚陸艦であれば、1万トン級の様な大型ではなく、既存の内海航路用の海上トラックと呼ばれた小型貨物船を原型として開発を進めれば良いので20トン級中型戦車6両、30トン級なら4両程度を積載し海上を15ノットで航送するというものであった。
1000トン以下のそれであれば多数自前で揃えてもそれほど予算を圧迫しないという事情もあり、また、民間に同様の仕様で普及させれば港湾整備が追いついていない島嶼部や地方においても活用出来ることから商工省や内務省、鉄道省などを巻き込めると参謀本部と船舶本部は皮算用を立てていたのである。
どちらに転んでも陸軍にとっては必要数を確保出来る見通しだったのだ。




