混沌へのスタートライン
皇紀2592年 12月24日 世界情勢
ドイツに続いてアメリカでの選挙は大きな影響を与えつつもそれぞれの国で新たなる歩みを始めるのであった。
ドイツにおいてはアドルフ・ヒトラーとヘルマン・ゲーリングの二頭体制化がより顕著になり、ドイツ政界と財界の受けが良いゲーリングは再び国会議長に選出され、対照的にヒトラーはナチ党の党首であるが無役のままであった。
水面下では組閣交渉が行われているがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が難色を示すことでヒトラーの組閣には至っておらず、新首相としてクルト・フォン・シュライヒャーが史実同様に組閣したのである。彼の内閣は前内閣であるパーペン政権とそれほど違わない顔ぶれであるが、親パーペン派だった顔ぶれは一掃され二度続いた選挙結果を反映させるそれであった。
しかし、シュライヒャーは自身の政権基盤が不安定であることをよく理解しており、ナチ党を分断することで自身の支持基盤を固めようと画策していたのである。この動きはヒトラーの知るところとなり、すぐにシュライヒャーと接触していたナチ党左派の主立った者を党役職から辞職させ引き締めを図ることになったのである。
この動きは史実と同じであったが、恐らくはヒトラー自身の心境としてはゲーリングの台頭と併せて非常に悩ましいものであったのは間違いない。自身を脅かす存在をこれ以上野放しには出来ないと彼は考えていた。
12月上旬にナチ党左派の領袖グレゴール・シュトラッサーは何者かによって襲撃され重傷を負うという事態に遭遇した。これは明らかに親ヒトラー派によるものであったが、シュトラッサーは自身が本格的に消されることを恐れ公にすることなくナチ党組織全国指導者の立場を返上し、ヒトラー支持を表明したのである。
一種の粛正によってナチ党内の引き締めを図ったヒトラーであったが、それでもゲーリングとその周囲には手出しが出来なかった。ゲーリング自身はヒトラーを党首として、政治的指導者として明確に支持していること、党内での最大の資金源であることが粛正を思いとどめていたのだ。
ゲーリングもヒトラーの心証悪化には常に注意を払い、彼の機嫌を損ねぬように立ち回っていたこと、また公では自身の功績すらもヒトラーの人徳、指導者としての器として賞賛するなどナンバー2でしかないことをアピールしていた。これは実に効果的であり、ヒトラーの虚栄心を満たしていたのであった。
だが、ゲーリングはナチ党での自身の勢力と権勢の拡大をそれほど必要としていなかった。欧州大戦の英雄であり、ヒンデンブルグと昵懇の仲であり、そしてドイツ政財界と太いパイプがある彼にとってより重視していたのは国防軍との関係強化であったのだ。ナチ党を支持しない勢力であっても、英雄であるゲーリングを支持し協力する者は多く居たのである。そして、貴族然とした態度と容姿のゲーリングと対照的なヒトラー、どちらがより人間として付き合いたいか、言うまでもないことだろう。
こうした事情からドイツ政界は史実と似た結果ではあるが、その内包した実情は全く違う展開でその歴史の歩みを進めていたのである。
そして、アメリカ……。
史実以上の圧倒的勝利を得たフランクリン・デラノ・ルーズベルトはその広く広範な支持基盤をアピールし、自身の行動や政策をアメリカの意思であると主張し、ハーバート・フーヴァーが取り仕切っていた従来の国政を否定するステートメントを次々と発表していた。
欧州政策はヴェルサイユ体制への回帰、中欧の現状否認と明らかにフーヴァー政権と異なり、積極的に世界情勢に口を出す方針を打ち出したのである。事実上のモンロー主義打破を目指したそれである。
大統領就任前の段階で明確に欧州情勢に口を出す姿勢を示したことに大英帝国、ドイツ、イタリアは反発し、特に大英帝国からは強い口調での批判されるのであった。
「州知事は世界情勢をご存じない。時計の針は進んでいるのにも関わらず、今も1919年だと思い込んでいるようだ。彼が海軍次官を務めていた頃もそうだが、どうも自分の望む結果にならないことが我慢ならないようだ」
「緊縮財政による財政健全化を選挙で訴えていたのに、ニューディール政策とは放漫なばら撒き。帳尻あわせに強引な取り立てで欧州から再び搾取していく未来しか見えない」
このような形で新聞記事で身勝手な男だという印象で報道されることもしばしばであった。欧州における対米不信感はフーバー政権の保護貿易志向で高まっていただけに至る所で反米不買運動が起こることになったが、ルーズベルトはお構いなしの態度であった。
現職であるフーバーにとっては消化試合のそれであるだけに表だって混乱を招くことはしたくなかったが、彼が何を言おうが既に死に体と国内外から認識されているだけに何も言う気力すらなかった。だが、それが余計にルーズベルトを増長させるに至っていたのだ。
こうして国際政治は波乱を残しつつこの年も暮れていった。




