新たなる策謀<2>
皇紀2592年 11月11日 帝都東京
有坂邸における密談で東條英機は関東軍出動による対ソ戦という策謀を実行に移すことを決断するに至った。
史実のノモンハンや張鼓峰のそれと同じくソ連およびモンゴルの進出による事変を生み出すことで国際社会を味方につけた上でのソ連封じ込めを狙ったモノである。無論、その裏には対米戦略も含まれたものであるのは言うまでもない。
策謀は東條-有坂枢軸によってのみ行われているものではない。帝国陸軍の側でもまた正式な研究や作戦案の立案は推し進められている。特に荒木貞夫中将や永田鉄山大佐、小畑敏四郎大佐らの主導によって機動砲の開発が強行されたことなどがそれの最たる例である。
これによって帝国陸軍は馬匹に頼らない火砲の移送が容易となり、同時に砲兵の自動車化が進められている。これによって以後の火砲はすべてがトラックまたはトラクターによる牽引を前提とした砲の開発が規定化されたのである。開発は主に有坂重工業が請け負い、機動砲の生産も現状では最優先として機動九〇式野砲、機動九一式十糎榴弾砲の量産は順次進められている。
装備改変によって新編された砲兵は順次満州へ送られていたのである。この機動化された砲兵はドイツ陸軍およびアメリカ陸軍の運用方式に倣い、師団砲兵(野砲兵連隊等)の火力向上のため従来の75mm野砲2~3個大隊・10cm軽榴弾砲1個大隊編制から、野砲1個中隊および軽榴弾砲2個中隊から成る大隊を3個大隊・15cm重榴弾砲1個大隊編制へと編制換えを行っていたのである。史実でも30年代後半から実施していたこの動きを促進したのは帝国が介入したバルカン戦役によるものであった。
試製砲での運用ではあったが、砲兵の早急な展開と歩兵の侵攻に連動が可能であるという点が大きく評価されたものであるのは言うまでもない。だが、それと同時に将来的にはこの機動砲兵連隊の拡充で独立機動砲兵として運用するだけでなく、戦車師団に付属させることで電撃戦にも利用しようと帝国陸軍は算段していたのである。
この機動砲の展開が可能となったことで帝国陸軍は参謀本部を中心に北満州とシベリア地域における侵攻作戦を研究し、まずまず満足できる内容になっていたのだ。特にディーゼルエンジン搭載の車両が揃うと寒冷地での稼働率向上によって冬季であっても作戦可能な地域や期間が増えると付記されていたのである。
これらの研究を中心的に行っていたのが荒木子飼いの小畑であった。対ソ作戦の専門家としてこの世界でも小畑は名声を獲得していたのだ。それと同時にシベリア出兵における凱旋将軍である荒木が参謀本部で幅を利かせることもあって参謀本部だけでなく陸軍省においても対ソ一撃論は確実に浸透しつつあったのだ。
東條はこれらの動きを利用する形で敵から動くように仕向けるために餌として大慶油田を用いようと考えていた。無論、その信憑性を増すためにライジングサン石油を試掘に巻き込み、大英帝国もまた当事者に引き摺り込む算段だったのである。
この計画は北満州勢力圏固定化の時期から東條-有坂枢軸の関係者で検討されていたのだが、当初、出光商会を率い満州油田の権益を有する出光佐三が反対を唱えていたのである。
「油田を餌にするのは構わん。だが、その計画では試掘の途中ですら露助が襲ってきても不思議じゃない。せめて試掘が終わるまでは情報隠蔽を図るべきだ。下手すると大英帝国が手を引く可能性すらある……やるならズブズブに引き摺り込んでからでないと火傷するだけだ」
満州や上海で欧米の大手石油会社相手に堂々とシェア争いを続ける出光の言葉には東條-有坂枢軸の関係者たちも頷くしかなかった。
「まずは出ることを確認して、彼らに石油を握らせる……そこまでしたら彼らも権益を手放せなくなる。こっちは石油の独占が目的じゃないんだ。石油という血液を手に入れること、内地にそれが届くことが大事なんだ」
出光の言葉に納得した一同は秘密裏に大慶油田の試掘を進め、時期を見てから公表することで一致したのである。後は本職の出番である。軍事行動は帝国軍人、大英帝国を巻き込むのは官僚や財界人の役割である。それぞれの任務を果たすべく段取りを進めていくのである。
そして、裏工作は文字通り細工は流々仕上げを御覧じろといった具合である。




