魔王を呼ぶ儀式<2>
皇紀2592年 11月10日 アメリカ合衆国
ハーバート・フーヴァー政権が時流を読み間違え、また共和党内での地歩を固めていたことによって誤った確信の元で選挙戦を進めていた中、フランクリン・デラノ・ルーズベルトとその陣営はフーヴァー陣営の失敗を自分の選挙運動のための綱領に利用できると考え、ニューディール政策と呼ばれる改革を公約したのであった。
ニューディール政策はそれまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた……これは史実において広く知られるものであるが、表面的な資本主義に対して内実を考えると事実上の社会主義的統制経済の手法であることは一目瞭然である。
また、ケインズ主義に則った政策であると言われることも多いが、実際にケインズ主義政策を実行していたのは、いち早く世界大恐慌から脱した日本の高橋是清が考案した政策である時局匡救事業であり、ニューディール政策の骨子部分は時局匡救事業のアメリカナイズだと言うのが適切であろう。
選挙戦が始まるとルーズベルトはラジオ放送で行った選挙演説で「大統領に就任したら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言したのである。これの目玉としてニューディール政策を提唱していた。
これに対し、一部憲法学者は「公正競争を阻害する」とする違憲論を主張するが、困窮極まっているアメリカ経済と労働者階層は「憲法論よりも明日のパン」の方が優先であった。
また、民主党は悪名高き禁酒法の廃止を主張し、これによって流通の適正化と密造酒の流通阻止を狙っていた。これにはギャングの資金調達を阻止し弱体化させるという意図もあった。それと同時に禁酒法制定前にはアルコール関連で毎年5億ドルの税収があったものを復活させ国家財政の強化を考えていたのである。表向きの飲酒の自由を認めるというそれの裏では税収確保という強かな政策立案であった。
ルーズベルトは選挙終盤には「三つのR……救済、回復および改革」という看板を再度掲げて、ニューディール政策によってそれは成し遂げられるだろうと遊説先で高らかに宣言して回っていた。
また、ルーズベルトは危険な飛行を繰り返し、それを「挑戦的な飛行」と称して聴衆の目を引きつけ同時に飛行機による矢継ぎ早に遊説先各地を飛び回ることで会いに行ける大統領候補として自身をプロデュースしていたのである。飛行機の搭乗口から降り立つところを支持を鮮明にする地方紙に撮影させ翌日の朝刊に掲載させるというマスコミ対策も万全であり文字通りルーズベルト旋風を巻き起こしていたのである。だが、彼の写真で不可解な点があったがそれに気付くものは多くはいなかったのである。
彼の「挑戦的な飛行」による遊説は実に効果的であり、視覚聴覚に訴えかけるものがあり聴衆は皆熱狂の渦に巻き込まれていくのであった。彼の手振り身振りが聴衆を惹きつけ、そして聴衆にルーズベルトの名を叫ばせていたである。
そして11月8日……。
投開票が行われ、大魔王が名実ともにこの世に降臨したのであった。




