魔王を呼ぶ儀式<1>
皇紀2592年 11月10日 アメリカ合衆国
1932年のアメリカ合衆国大統領選挙は、29年の暗黒の木曜日、悲劇の火曜日から始まった株式市場の崩壊、それに続く消費の低迷と失業の増大による世界恐慌の影響が国中を覆った状況で行われた。
ハーバート・フーヴァー政権は景気回復を目指すも従来の神の見えざる手による自然な回復、つまり国内においては政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続し緊縮財政を継続したことで世界恐慌を深刻にさせてしまっていた。
また、海外政策でもスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策、金本位制の維持に固執し高金利政策を実施したことでブロック経済化による慢性的な輸出入の減少という結果を生み、余剰生産を消費しきれない悪循環を生み出していたのであった。
こうした経緯もあり、フーヴァー政権では景気回復は叶わないと有権者たちは認識し、また禁酒法もうまく扱えないと感じその人気と支持率を低下させていった。28年の大統領選挙における「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンが地に墜ちたことを合衆国市民は皆が痛感していたのである。
だが、フーヴァー政権側は時流を読み違えていた。32年が始まったときに、共和党は恐慌の最悪の時は過ぎたと期待していたのである。実際、輸出と対外投資は増え、合衆国経済はいくらか持ち直す傾向を見せ始めていた。特に対日迂回輸出や対ソ輸出が増えていたことで輸出産業を中心に世界恐慌の悪夢から脱した感はあったのだ。
だが、それは合衆国を潤すにはほど遠いものであった。輸出産業が利潤を得ても労働者たちには再分配されることはなく、専ら株主配当や経営者の懐に収まっていたのである。
そして、その利潤を得ていた企業はフーヴァーにとっては選挙戦最大のライバルとなるフランクリン・デラノ・ルーズベルトへ資金を流し、ルーズベルトの力をつけさせていたのである。無論、彼もまた企業のそれに応え、ニューヨーク州における雇用環境の改善や積極的な工場誘致などで報いたのである。
ここに政財の癒着構造が誕生したのである。
だが、それだけではなく、対ソ投資の増加はルーズベルトによる斡旋で関係企業がソ連領カムチャツカに進出したことで起きていたのである。カムチャツカにおける鉄道建設、港湾建設、工場の設置というそれは明らかに日本への圧力を意識したものであった。
彼の母方であるデラノ家は支那における利権で財を成しただけに、支那大陸における日本の権益拡大はルーズベルトや彼に連なる企業や企業家にとっては脅威であり、同時に自分たちの権益を損ねるものであった。
ソヴィエト連邦の支那大陸政策とルーズベルトとその取り巻きの利害はこうして一致、そして手を結んだ結果が32年が始まった際の景気回復の裏事情であった。それはフーヴァー政権が何一つ経済政策で成功していなかったことを如実に指し示していた。そして、それを理解したからこそ、財界はフーヴァー政権を見限っていたのである。
だが、フーヴァー陣営にとっての誤算はまだあった。ヘンリー・スティムソン国務長官が事実上の反旗を翻したことである。
彼は対日強硬策を幾度か提案していたが外交において国際協調を望むフーヴァーにとってスティムソンのそれは些か行き過ぎの感があったのだ。それ故、提案を退けられることも度々あり、水面下で接触してきたルーズベルトと手にを握ったのである。
そして迎えた11月8日……遂に結果が明らかになるのであった。




