ドイツ総選挙<2>
皇紀2592年 11月10日 ドイツ=ワイマール共和国
夏の選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が大勝して第一党に躍進したが、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領とアドルフ・ヒトラーの交渉は、提示された副首相のポストにヒトラーが満足しなかったために決裂し、ナチ党内において大きな失望感が広がった。
また、大統領内閣の首班であるフランツ・フォン・パーペン首相の不信任案の緊急動議を提出したために議事が進まなかった。この不信任案には与党である中央党がナチ党に否決協力を依頼したが、ヒトラーはこれを拒み、逆に共産党と結託し不信任案可決に舵を切ったのである。
9月12日の国会本会議で不信任案が提案されると国会議長であるヘルマン・ゲーリングはパーペンの用意した国会解散命令書を無視し、不信任案の審議を進めた。パーペンは怒りで顔を青白くして命令書を掲げて叫んだが結局、不信任案は賛成512票、反対42票という圧倒的多数で可決された。
史実通りの展開であった。
史実ではパーペンは可決された後に議長席へ解散命令の書類を置き、ゲーリングに無視された上で不信任案が可決された内閣の構成員の署名入り書類は無効であるから受理できないとして嘲笑されていたのであるが、この世界では変化が生じていた。
「我が国会はパーペン内閣に不信任としたが、大統領の署名入りである国会解散については謹んで承る。これからは選挙戦で語り合うことになるであろう。諸君、ドイツの未来のために大いに戦わん!」
ゲーリングの議長決裁によって史実と同じく国会解散、再度の総選挙という結末へとなったが、その経緯には大きな違いが生じていたのである。
迎えた11月6日、再度の総選挙には各党ともに続けざまに行われた選挙戦に疲れを見せ、また資金不足によって満足にポスターの掲示すら出来ない政党すら出てくる始末であった。
前回の勝者であったナチ党もまたその例外ではなく、資金力でものを言わせることが出来るゲーリングに近い候補者は有利な選挙戦を勧めていたが、逆に資金力で息切れしているナチ党古参やナチ党左派の候補たちは不利な選挙戦を戦っていたのである。
特にナチ党左派は集票力が激減していた。これは共産党支持者への転向とナチ党への支持率低下というダブルパンチであったと言える。共産党と結託したヒトラーの手法に嫌気がさした結果とも言って良かった。
第二党であった社会民主党もまたルール工業地帯を中心に得票率を下げ、それらを共産党に奪われるという失態を犯していた。
国家人民党や中央党の支持は厚く、中央党はいくつか議席を落としたが軟着陸をし、国家人民党はナチ党や社会民主党から離反した層の支持を得た結果、中堅政党としては大幅にその議席を伸ばすこととなった。
これはドイツにおける政治的なパワーバランスの変化となったのである。ブルジョワ層の失望はナチ党への支持を弱め、プロレタリア層の支持は共産党へ流れるという構造だ。史実でも同じ変化が起きていたが、表面上の数字に表れない力関係の変化も起きていたのである。
ゲーリングの台頭というそれである。
古き良きドイツへの懐古、貴族然とした態度、英雄という経歴……そしてカイザーや日本とのパイプの太さ。これらがドイツ政界において大きく作用するようになっていたのである。
特にナチ党内におけるゲーリング派の自然形成は企業家や貴族層にとって望ましいものであり、彼の派閥は非常に潤沢な資金を有し、実際、彼自身も周囲を手厚く遇していたこともあり人望に篤かった。こういった事情もありドイツ政界の水面下ではゲーリング首相という可能性が囁かれ、政界再編という動きも見られるようになっていた。
ナチ党内部ではヒトラーの指導力に疑問符がつく事態ともなり、結果としてますますゲーリングの存在感が増していくのであった。




