日本推進機株式会社
皇紀2592年 10月15日 日本推進機株式会社
日本でプロペラメーカーと言えば住友金属と日本楽器が有名だ。特に住友の場合、戦後の「戦時中のライセンス料は1ドルでOK!」の話題で有名だ。
住友はハミルトンスタンダード社から、ハミルトン式金属可変ピッチプロペラの製造権を購入し、陸海軍の航空機向けに製造を開始していた。この時期はまだ2段可変ピッチ式のものであり、零戦などに搭載された定速式のものはまだ実用段階にはなかったが、可変ピッチプロペラ発祥のアメリカ合衆国ではハミルトンスタンダード社やカーチス社などが従来のそれではなく、より実戦的・近代的なプロペラシステムである定速式の開発に血道を上げていた。
プロペラを語るにおいて固定ピッチ、可変ピッチ、そして定速ピッチの違いを語らずにおくわけにはいかない。
欧州大戦において新兵器として登場した戦闘機は空中で華々しい格闘戦を演じ、幾人もの英雄を生み出し、そして散華させていった。彼らが愛機に搭載されていたのは固定ピッチ式のそれである。
だが、航空機の進化はめざましく、発動機の大出力化や高速化、搭載能力の増加と続く。進化が続けばその分だけプロペラシステムもまた進化を遂げざるを得なかった。
離陸から一定の高度に至るまでの時間、飛行距離が進化に応じて伸び固定ピッチでは次第にままならない状態となってきた。そこで登場したのが可変ピッチであったのだ。軍用機のような運用条件が一定しない航空機においてはこの発明はまさに画期的、劇的な進化を促すこととなったのだ。
だが、戦闘機のような状況が瞬時に一変する空中戦において可変ピッチは逆に足を引っ張るようになることが次第に判明していく。瞬時の状況判断をしなければならないときにパイロットがピッチを変更するための操作を行わなくてはならないのだ。そんな余裕があるパイロットはベテランであってもそうそういない。
となると、プロペラそのものが速度や高度に応じて自動的に適正な角度や回転数に調整してくれることを期待されたのだ。定速ピッチの原点がこれであり、ハミルトン・スタンダード社やカーチス社が取り組んだのは当然の帰結であったと言えるだろう。ハミルトン・スタンダード社は油圧方式のそれをめざし、カーチス社は電気方式を目指した。
特にハミルトン・スタンダード社の社内での開発においては固定ピッチ方式と比べると歴然とした差が示されその効果が証明された。とは言っても、未だに開発中の技術であることもあり日本国内においてはライセンス生産という段階には至っていない。
住友金属は来るべき航空時代に先駆けてアメリカから工作機械の導入を積極的に行い、また技術交流を活発化させていた。無論、その裏にあるのは陸軍機の発注で急成長している中島飛行機とその総帥中島知久平であった。
中島の強力な指導力は群馬県下における航空機用工場の増設だけでなく、埼玉県下における自動車用工場、発動機用工場の増設という文字通り日本のデトロイトを意識したそれによって示されていた。
中島飛行機の生産力が拡大する分、陸軍は航空戦力充実を目論見、主力の太田工場から福岡大刀洗飛行場を経て満州方面へと新設航空部隊が送られていたのである。だが、そこでネックになったのはプロペラ製造であった。
住友金属だけでは賄いきれない状態となり工場増設などを推し進めていたが、そんなときに住友財閥本社は経営再建中であった日本楽器に目をつけたのであった。日本楽器もまたプロペラ製造を行っていたからである。1927年に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任していたこともあり、住友側は経営資源をプロペラ製造に注ぎ込むことで陸軍と中島飛行機の要求に応えんとしたのであった。
これが功を奏したのは言うまでもなく、日本楽器が開発した被包式木製プロペラは、軽くて強度の高いものであり、重量増加を極力抑えたい陸軍の要求にも合致し、この時期の航空機には親和性が高かったこともあり最優先事業と位置づけされたのである。
住友からの支援と陸軍御用達という金蔓を得たことで日本楽器はあっという間に経営環境を改善し、32年度決算は大幅な純利益を記録するであろうと経済誌を賑わせている。
年初来からの株価の続伸もあり、日本楽器と実質的な親会社となっている住友金属はプロペラ事業の統合により合理化を推し進め、特許料支払いの軽減を狙い始めていたのであったが、遂にこの日、両社による円満な事業統合が発表されたのである。
新会社として日本推進機株式会社が設立され、傘下に住友金属から大阪桜島工場、静岡工場、日本楽器から浜松工場、天竜二俣工場(新設)が加わることとなる。
いずれも鉄道と接続されていることにより名古屋を拠点とする三菱や太田を拠点とする中島への鉄道輸送に困ることはない。また、定期専用列車の運行によって出荷と納品は常に管理されているのである。特に天竜二俣工場は新設されたばかりでもあり、矢作水力の船明ダムからの豊富な水力電源が至近に確保出来、最新の電気工作機械を大量に据え付けていたのである。
この船明ダムであるが、史実との異なり、空前の好景気と逼迫する電力の開発要請によって25年に着工し30年に完成したばかりの最新の発電用ダムである。また、同様に泰阜ダムの建設も続いており、史実通り35年に完工を見込んでいる。これらを併せて天竜川水系の電力開発とセットでの内陸工業団地形成が二俣地区で進んでるのであった。




