金星への道<2>
皇紀2592年 10月15日 三菱名古屋製作所
陸軍による納入拒否という問題を乗り越えた三菱にとって次の難関は金星初期型A4の抱える構造的問題の解決と性能向上であった。
金星という基本形式の確立は三菱にとっては大きな前進であり、同時に空冷発動機開発という方向性に確信を持つ出来事でもあったのだ。
しかし、その性能向上には構造上の欠陥を克服すること、技術上もしくは生産上、信頼性の向上が必須であったのだ。
当時、各国が開発を進める航空機用発動機の研究を進めるとともに先進的で効果的な優れた部分を取り入れることからそれはスタートしたのである。
気筒にはアメリカの主流方式やイスパノスイザの技術、クランクシャフトは欧州式の一体型、カムはアームストロング社を源流とする傾斜カム、減速装置はファルマン式、過給機はライト式とした。
中でも画期的だったのはボールベアリングの使用が一般的だったが、これをクランクシャフト付近の4個だけとし、それ以外のベアリングを鉛ブロンズのプレーンベアリングへ置き換えたのである。これによる効果は絶大であった。簡潔な構造にすることで信頼性の向上を増すことにつながったのだ。
また、基本設計方針が確定した後に設計図が作られたが、その設計図が完成したその日に深尾淳二技師(発動機部長)が設計室に広げられていた図面を眺めていた時のことであったが、一つの事件が発生したのである。
三菱の技師たちが必死に作り上げたA8の設計図をじっと見つめていた深尾が突然鉛筆で設計図に書き込みを始めたのである。驚いた技師たちが口々に抗議し始めた。無論、それは技術的なやりとりである。
「部長、それでは重量が増すことになる。発動機の重量増加は命取りになる。考え直して欲しい」
「すまないが、それは出来ない。指示したとおりに設計し直して欲しい。そうでないとこの発動機は失敗作になる」
深尾と技師たちのやりとりは一晩中繰り広げられたのだが、頑として首を縦に振らない深尾に技師たちの方が折れて結局は設計をやり直すことになったのである。
前後列シリンダーの間隔を変更するということは全体図面の書き直しになるのであるが彼ら技師たちは遅れを取り戻すべく連日の徹夜で設計変更のそれを挽回することになった。
しかし、この作業は結果として吉と出たのである。
前後列間の中間軸受けを置くことが出来るようになったのと同時に整備性の向上という副産物が生まれたのである。この事態に技師たちは深尾の慧眼に敬意を表するとともに自分たちのやってきたことが無駄でなかったことに確信と誇りを持つことになった。
A4の時に頻発していた軸受けの焼損や整備時の窮屈さの解消という問題もA8の開発では見当たらず、さらに設計変更によるメリットを享受することとなったのだ。
こういったことが彼らの士気を結果として向上させ、その後の発動機開発に大きく貢献することになったのだ。
しかし、三菱の設計陣が自信をつけていくと同時に、自分たちの望む形での発動機開発をしようとしない三菱の姿勢に海軍側もまた態度を硬化させていくことになるのであった。特に初期金星A4を採用して三菱の後ろ盾になっていた海軍との隙間風は三菱経営陣にとっては流石に見過ごすことが出来なくなったのである。
特に時期的に海軍から受注していた海軍側要求水準を満たす発動機(A7)開発と真っ向からぶつかり合うものであり、海軍にとっては面白くないことこの上なかった。
「海軍の発注した発動機開発に本腰でないなら中島に発注し直すがそれでも良いのか?」
海軍から文字通りの恫喝が三菱本社に入ると名古屋製作所にはA6開発の促進が矢のように届くようになったのだ。
無論、深尾ら開発陣はA6開発を軽視していたわけではなかったが、海軍の要求を満たすものであればA8が最適と思っていたのだ。
A4で一定の成果を上げている以上、その進化版であるA8を採用すべきであろうに海軍が押しつけた仕様の発動機を開発しても成功する見込みは低かったのだ。そして、彼らの想定通りにA6は性能不足が露呈し開発中止となったのであった。
A6開発中から失敗の可能性濃厚と判断していた開発陣はA8の開発を優先する姿勢を示し、その完成と実用化を急いでいたのである。A8が実用化出来れば、馬力アップやシリンダーのサイズ変更による大排気量発動機開発につながると確信していた彼らにとってA6の様な寄り道は時間の無駄でしかなかったのだ。
特に空冷一本と決めた後はその持てる力をA4→A8に注ぎ込んでいただけあってA8の実用化は文字通り三菱の命運を左右すると認識していたのである。
A6が正式に開発終了となったその直後に分散していた開発チームは再び統合され全力でA8開発に没頭し、遂に10月15日にA8の量産試作発動機が完成したのである。
問題が見つからなければ33年夏頃には量産体制に入れる目処が立ったのである。




